武器をすてよう

2022年08月15日

bukiwosuteyou

もう二度と戦争を起こさないために。敗戦から77年を経た今、読み返したい文章があります。多くの人が抱く不安について、自分の頭で考え、あきらめずに言葉で意見を示したい。私たちは国のために生きるのではなく、私たちの暮らしのために国があるのですから。

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武器をすてよう  文・花森安治(『暮しの手帖』初代編集長)

   a

いっぺん、この地球を、どこか外から、ゆっくり眺めてみたら、さぞおもしろいだろう。
人工衛星からみた地球の写真、というのをみたことがあるが、あんなものじゃつまらない。なにがなんだか、さっぱりわからない。説明を読んで、ああこのへんが、カルフォルニアか、ああそうかいな、ではどうにもならぬ。
ぼくが、いっぺん眺めてみたいとおもうのは、ぽっかり空中に浮んでいる地球である。
それも、バカみたいに、ただ暗い夜空に、青白く光っているのではない。まあ、よくよく精巧にでき上った地球儀の、それの実物だとおもって下さればよい。
それを、どこかによそにいて、ゆっくり眺めてみたら、さぞおもしろかろう、というのである。
そんな仕かけは、じっさいには、まだどこにも開発されていないにきまっているが、ありがたいことに、ぼくたちの頭のなかには、そういう地球を、いま見たいとおもえば、いま見られる仕かけが、ちゃんとでき上っている。
ちょっと目をつぶって、ムニャムニャと呪文をとなえると、ぽっかり浮んでいる地球が、見えてくる。
もちろん、天然色である。
アルプスの山の上には、雲が白くかがやいているし、太平洋は、いろとりどりの青さでひろがっている。
地球儀ではない、ほんものだから、気をつけてみると、みんな動いている。
アルプスの頂上近くを、ふうふういって登っている人が見える。ピッケルにつける国旗を忘れてきたことに、まだ気がついていない。
谷川岳のナントカ沢を、やっぱり、ふらふらになって歩いている人が見える。女のひとだから、ちょっと休んで、チョコレートなどをかじっている。
サイゴンの床屋で、ベトコンか南ベトナム兵かを探知する器械を、アメリカ軍が発明したらしいと客がしゃべっている。おやじがカミソリをとぎながら、ふんふん、それならうちにもあるよ、といっている。
フロリダの沖を走っている、赤い帆のヨットの上で、男の子が、このまま大西洋を横断しようかと、心にもないことをいっている。新聞社に知らせてないから、つまらないじゃないの、と女の子が、ガムをはきだしている。
ブエノスアイレスの波止場に近い酒場で、若い男や女がゴーゴーをおどっている。旅行者がタンゴはやらないのかね、ときいたら、給仕が、ここは観光ルートに入ってねえんです、と答えている。
パリの空港では、税関吏が、作り笑いで、肥った婦人客のスーツケースをしらべながら、うちのかみさんは、こんども流産するのじゃないか、と考えている。
モンゴールの草原には、見わたすかぎり秋の日が光っている。
ドナウ河のほとりを、カラカラと、ぶどうを積んだ荷馬車が走っている。
北京の裏町で、つくろいものをしている母親が、毛主席は、すこし肥りすぎたようだねえ、と小さい声でつぶやいている。傍で語録を読んでいたこどもが、そんなこというな、と小さい声で叱っている。
ロンドンの洋服屋のおやじが、仮り縫いをしながら、こないだも、こうしているところを映画にとってゆきましてね、インスタントコーヒーのコマーシャルだそうですよ、と話している。客は後を向いたまま、あのコーヒーはまずいな、といっている。
ボルネオの北の海岸では、椰子の実をもったこどもがふたりいる。この実を海に投げこんだら、日本まで流れていく、とおばあさんがいっていたぞ、と一人の子がいうと、もう一人の子が、時代がちがうからダメだ、といっている。
スエズ運河には、汽船が沈んだままになっていて、マストの上にカラスみたいな鳥がとまっているのを、河岸の兵隊が、あくびをしながら見ている。
プラハの町角では、どこかの新聞記者が、手まねで、シャッターのこわれたカメラを直してくれるところはないか、ときいている。ジーパンをはいた若者が、モスクワへ行ったら、と答えているのだが、通じないらしい

   b

いま、地球の上には、独立国が百三十七もある。ソ聯がチェコへ侵入したときは、百三十六カ国だったが、九月に、アフリカで、スワジーランドという国ができたので、百三十七になったのである。
独立国だから、どの国にも国旗がある。
ぽっかり浮んだ地球の、あちらこちらに、一斉に百三十七本の国旗が、へんぽんと風にひるがえっているのを見ると、オリンピックの開会式を、テレビなどでみるのとは、ケタちがいの壮観であって、感激する。
ちぎれんばかりにはためいているのは、台風に襲われている国の国旗だろう。
旗のデザインの、はっきりしない国旗が、いくつかあるが、これは、ぼくの手許にある、ちゃちな地図帖にのっていないからで、地図帖にのっていなくても国があることはたしかだから、デザインがはっきりしなくても、心配なく風にはためいている。
国がある以上、兵隊がいる。
百三十七もある国のうち、いちばん小さいのは、バチカン市国だが、このいちばん小さい国にも兵隊がいる。
なんとかパックの、御一人様五十万円也で、エッサカエッサカとヨーロッパをまわってきた連中が、いやだわかってる、というのに、見ろ見ろといって見せるカラースライドには、たいていこのバチカンの衛兵か、ロンドンのバッキンガム宮殿の衛兵が、斜めになったり頭が切れたり、露出がオーバーだったりして写っている。
もっとも、バチカンの兵隊さんは、早くいえば、お飾りの兵隊で、中世紀そのままの服装だから、こんな兵隊が、いくらチェコやベトナムにくり出して、やあやあ、遠からん者は、とどなったって、べつになんということもない。
しかし、ほかの国は、たいてい本ものの軍隊をもっている。こんどできたスワジーランドは、どうかしらないが、ここだってあるにちがいない。新しい国は、すぐ内乱がおこるから、国旗はなくても、とにかく軍隊がなければ、サマにならない。
さあ、その地球の上の、軍隊のいる国が持っている、ありとあらゆる武器を、一切合財、きれいさっぱり捨ててしまおうじゃないか。
重さにしてどれくらい、カサにしてどれくらいか、さっぱり見当がつかないが、とにかく、たいへんな量にちがいない。
それなら、ひとつ一手払下げの権利を、などといくら代議士や大臣を通じて運動したって、ダメだ。
その武器という武器を、あの国からも、この国からも、とことん洗いざらい集めて、太平洋のどこか真中あたりに、片っぱしからドボン、ボシャンと捨ててしまう。(造船会社と船会社の株が上るぞ、疑獄にご注意)
捨てても捨てても、あとからあとから武器をいっぱい積んだ船が、いろいろの国旗をかかげてやってくるから、みるみるうちに、捨てた武器で、島ができ上ってしまう。
そこで、土を入れたり、かためたり、木を植えたり草花のタネをまいたり、一ぴき百円のカブト虫を放してやったりして、この島を、平和の島と名づける。
海に沈んでいる部分は、いまはやりの海底牧場として絶好で、タイも来い来いタラコも来いで、魚の超マンモスホテルになる。
陸上のほうは、オリンピックの常設会場にしたらいい。オリンピックをやらないときは、万国博の会場に貸してもよいし、それもないときは、世界各国の宗教の出張所をおいて、結婚式場にしたらよい。
もっとも、こういうことなら、いくらでもチエがあるとおもいこんでいる人間が、世界中に掃いて捨てるほどいるから、ぼくなどが、なにも口を出すこともあるまい。

   c

武器をもたない国はない、といったが、武器をもつためには、もちろん金がいる。
金がいる、なんてものではない、それこそ食うや食わずで、泣きの涙で、その金を工面しているというのが、じっさいではないか。
バカげた話である。
そんなおもいをして、どうして武器を持たねばならないのか。
捨ててしまえ、捨ててしまえ。
いったい、武器をもつために、世界でどれくらい、バカなゼニを使っているか、ためしに、ちょっとソロバンをはじいてみたら、どんなに少なく見積っても、たった一年分で、
47534040000000円
と出た。わかりやすく書き直すと、四七兆五千三百四十億四千万円である。
億とか兆というケタになると、お互い見当がつきかねる。もうすこしわかりやすくしよう。かりに、日本の住宅公団が、この金で住宅をつくるとすると、ざっと二千五百万戸が、たった一年分で建ってしまうのである。
ということは、日本人なら、その年だけで、一軒のこらず、この新築の公団住宅に入ってしまって、あとすこし空室ができて、だから翌年からは住宅公団が不要になって解散する、という計算になってしまう。
いま、住宅公団が、言いわけをしながら建てているのが、一年間に五万戸だから、二千五百万戸を建てるのに、五百年はかかる。最後の一戸が建ったときには、最初の一軒は、史蹟に指定されているだろう。
もっとも、これは、世界中の軍備費を、日本だけで使うことにしての計算だから、もうすこし、現実に即したところで計算してみよう。
世界中のこらず武器を捨てるのだから、日本だけが、買ったばかりなのに惜しいとか、せっかくだから教材用に残したら、などといってもはじまらない。
そこで、日本もすっかり武器を捨てることにして、その金で、住宅公団に建てさせると、だいぶケタはちがうが、それでも一年にざっと、二十万戸は建つ。本来建つ五万戸と合せると、二十五万戸ずつ、毎年建ってゆく。
もちろん、なにも住宅ばかり建てなくてもよかろう。たとえば、の話である。
心身障害児の施設にまわしたって、相当なことができる。
道路にまわせば、ずいぶんよくなるだろう。
学校だって、なんとかしたい。
こどもの遊び場も作ってやれる。
保育所も作れる。
なにしろ、一年こっきりではない。ほっておけば、毎年ふえる一方の金である。
それを、一切やめて、ほかに使うのだから、十年もたつと、ずいぶん、国の中のいろんなことが目に見えてよくなっていくにちがいない。
よその国を引き合いに出して申しわけないが、アメリカだって、武器をもつために、ずいぶん無理なゼニを使っている。
これを、そっくり、これから毎年毎年、ほかのことに使うとなれば、黒人のことも、スラム街のことも、すこしはよくなりはしないか。
ソ聯だって、おなじことである。
中国だって、おなじことである。
どこの国だって、みんなおなじことである。
どこの国だって、金がありあまって、捨てたいぐらいで、それで仕方なしに武器でも持とうか、などという国は一つもない。
それどころか、国民のひとりひとりが、つらいおもいをして、やっとかせいだ金を、むりやりに出させて、それで武器を作ったり買ったり、兵隊を養ったり、それを使って戦争をして、人を殺したり、町を廃墟にしたり、暮しをぶちこわしたりしている。
こんな、バカげたことって、あるものではないのである。

   d

世界中の国が、いっさいの武器を捨てて、その金を、もっとほかのことに使ったら、ぼくたちの暮しは、たしかによくなる。ずっと明るくなる。
しかし、ほんとのことをいうと、そんなことは二の次、三の次である。
世界中の国が、ある年の、ある日を期して、いっせいに武器を捨てたら、もちろん戦争はなくなってしまう。冷たい戦争などというが、あれはお互いうしろに武器をちらつかせてのことで、もし武器を一切捨ててしまえば、あんなものは、ちょっとした仲たがいにすぎない。
それからあとの世界では、筋のとおったことだけが、行われるようになる。
どこの国も、武器がないから、横車を押しようがなくなるのである。
いったい、戦車や大砲をつきつけて、よその国を、じぶんたちの思うようにしようという、こんな思い上ったやり方というものがあるだろうか。
武器があればこそ、よその国の自由を守ってやろう、という名目で、戦争をはじめてしまうのである。
ベトナム戦争に反対して、角材と石ころをいくら投げてみたって、それで戦争がなくなるわけではない。
世界中に、武器があるかぎり、戦争はなくならない。
チェコスロバキアの国民が、どんなに冷静に、機智さえまじえて、ソ聯を説得しようとしても、それでソ聯が、はいそうですか、よくわかりました、お騒がせしましたネエと引き下がるわけはない。
戦車と大砲だけで、それだけで、無理が通ってしまうのである。それだけで、チェコの国民は、だまるより仕方がないのである。
世界中の国が、一切の武器を捨てなければならない。

   e

人類は、物心ついたときから、なにかしら武器をもっていた。
むかしむかしの大昔、アダムとイブの孫くらいの時代の漫画をみると、どういうものか、そのころの人間は、どれもみんな、そろいの豹の毛皮を着ている。
あんなに豹がたくさんいたのかしらん、とおもうが、それはともかく、男というと、なにかスリコギの親方みたいな、先がふとくて、まるくて、イボイボのいっぱいついた棒を持っている。
なかには、女だって、あのイボイボの超スリコギを持って、男をポカリとやるのもいただろうとはおもうが、漫画家というのは、洋の東西を問わず、女性に痛烈な敵愾心を持っているものだから、女には、あの棒を持たせないことに、どこかで共同謀議をしたにちがいない。
それにしても、あのイボイボは、なんだろう。まさか、あとから、あれを植えつけるような、めんどうな技術はなかったはずだが、それなら、はじめから、あんなに具合よくイボイボの出ている木は、どういう木だろうか。
つい、話が外れた。イボイボの詮議はおくとして、とにかく、あんな太古原始の時代から、人類は武器をもちつづけてきて、ついに核爆弾まで、来てしまったのである。
まったく、バカもいいところだ。なにが万物の霊長だ。
すこし自分に都合がわるかったり、自分のおもう通りにならなかったら、すぐに武器でもって、相手に襲いかかる。
道理も筋みちもあったものではない。
人間の歴史というものは、結局のところ、武器でもって、道理をねじまげ、筋みちを踏みにじる、それのくり返しにすぎないのではないか。
お互い人間は、豹の皮以来だいぶながく生きのびてきて、一見便利そうなものを、いろいろ作り出してきたが、人間そのものは、いったいすこしでも進歩したのだろうか。
それとも、人間というものは、そもそも進歩しない動物なのか。
それなら、理性だとか知性だとかいうものも、頭のなかで作り出した幻影で、じっさいは、人間は、そんなもののカケラも持ち合せていないものだったのか。
そうはおもわない。
そうはおもいたくない。
ぼくたちは、おろかにも核爆弾まで作ってしまった。ぼくたちの生きているあいだに、これを捨てることは、つぎの世紀への義務である。

   f

全世界が武器をすてたときに、こんどのソ聯とチェコのようなことが起ったら、どうなるか。
もう、戦車も大砲もない。
仕方がないから、ソ聯の首脳部は出かけて行って、チェコの首脳部と、何日も話し合う。
話し合いがつかなければ、あきらめて帰る。
あきらめなければ、いろいろと手を考える。
どうだ、金を貸してやるから、いうことを聞けという。
よほど、チェコが金に困っていたら、うんというかもしれないが、自由化と引きかえじゃ、がまんして、いやだというかもしれない。
金でツラをはって、いうことをきかせるのも、筋みちをまげることだが、しかし、金なら、イヤということもできる。
戦車と大砲の前では、イヤはない。
そこで、チェコが、金をやるといってもイヤだといったら、ソ聯はあきらめて帰る。帰って、国民にそう報告する。
国民がそれを聞いて、チェコのいうのも、もっともだとおもったら、それですんでしまう。
いや、それは政府の説得が下手だからだ、と国民がおもったら、今度はソ聯の国民が、チェコへ出かけてゆく。
ソ聯の大工さんは、チェコの大工さんと、何日でも話し合う。
ソ聯のパン屋は、チェコのパン屋と話し合う。
ソ聯の大学生は、チェコの大学生と、ソ聯のおかみさんは、チェコのおかみさんと、ソ聯の百姓は、チェコの百姓と、いく日でもいく晩でも話し合う。
それで話がつかなければ、あきらめて帰るより仕方がない。
帰りぎわには、お互いに、このわからずや、なにおオセッカイやきめ、ぐらいはいうだろうが、とにかく、それでおしまいである。

   g

全世界が一斉に武器を捨てたら、いいにきまっている。わかりきったことをつべこべいうな。いいにきまっているが、そんな夢みたいなことができるわけがない、そういって、セセラ笑う人がいるだろう。
どうして、できるわけがないのか。
人間の歴史はじまって、世界中が一斉に武器を捨てよう、といった国など、どこもない。
やってみないで、できるはずがないときめていては、いけない。
げんに、人間の歴史はじまって以来、世界中どこの国もやったことのないこと、やれなかったことを、いま、日本はやってのけている。
世界の、百三十七もある国のなかで、それをやってのけたのは、日本だけだ。
日本国憲法第九条。
日本国民は……武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
ぽくは、じぶんの国が、こんなすばらしい憲法をもっていることを、誇りにしている。
あんなものは、押しつけられたものだ、画にかいた餅だ、単なる理想だ、という人がいる。
だれが草案を作ったって、よければ、それでいいではないか。
単なる理想なら、全力をあげて、これを現実にしようではないか。
全世界に向って、武器を捨てよう、ということができるのは、日本だけである。
日本は、それをいう権利がある。
日本には、それをいわなければならぬ義務がある。
総理大臣は、全世界百三十六の国の責任者に、武器を捨てることを訴えなさい。
なにをたわけたこと、と一笑に附されるだろうとおもう。
そうしたら、もう一度呼びかけなさい。
そこで、バカ扱いにされたら、もう一度訴えなさい。
十回でも百回でも千回でも、世界中がその気になるまで、くり返し、くり返し、呼びかけ、説き訴えなさい。
全世界が、武器を捨てる。
全世界から戦争がなくなる。
それがどういうことか、どんな国だって、わからない筈はないのである。
いつかは、その日がくる。
辛抱づよく、がまんをして、説き、訴え、呼びかけよう。
それでもわかってくれないとしたら。
そんなことがあるものか。
地球の上の、すべての国、すべての民族、すべての人間が一人残らず亡びてしまうまで、ついに武器を捨てることができないなんて。ぼくたち、この人間とは、そんなにまで愚かなものだとはおもえない。
ぽくは、人間を信じている。
ぼくは、人間に絶望しない。
人間は、こんなバカげたことを、核爆弾をもってしまった今でさえ、まだつづけるほど、おろかではない。
全世界百三十六の国に、その百三十六の国の国民ひとりひとりに、声のかぎり訴える。

武器を捨てよう。

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初出:『暮しの手帖』1世紀97号(1968年10月刊)
収録:『一銭五厘の旗』(1971年10月刊)
   『花森安治選集 第3巻』(2020年11月刊)
 


暮しの手帖社 今日の編集部