恋しいキッチン
第11回 鍋の中だけ、少しパリ
2026年02月04日

1990年代半ばから約8年ほど、パリに暮らしていました。左岸から右岸へと、気づけば4回の引っ越しをしましたが、暮らしの地図が少しずつ塗り替わっていく中で、今でも匂いまで思い出せる街があります。それが3回目に住んだパリ北部18区、Château Rouge(シャトー・ルージュ)です。
サクレ・クール寺院へ向かう人波の脇で、生活の音がいつも色濃く鳴っている場所です。Château Rougeはフランス語で「赤い城」という意味。それがぶどうの品種名にもなっているのを知ったのは、駅からほど近いモンマルトルの丘に、パリ市内で唯一現存するぶどう畑「ル・クロ・モンマルトル」があるからでした。
石塀に囲まれたぶどう畑は、毎年10月に開催されるお祭りの時以外、普段は非公開です。でも隣のモンマルトル美術館の庭や、外の小道からそっとのぞけます。愛犬ゴメスとのんびり散歩しながら、季節ごとに色が変わる葉や、ひっそりとした畑の気配を眺めるのが好きでした。
あの辺りは映画『大人は判ってくれない』や『地下鉄のザジ』のロケ地でもあり、坂道の角を曲がるたび、映画のワンシーンに迷い込んだような気分になったものです。丘の東側、駅の周辺は市場があり、野菜、肉、魚介、スパイス、布、日用品まで、暮らしが丸ごと並んでいます。
私が今でもパリを恋しくなる理由のひとつは、そこでよく買っていた蟹、トゥルトー(tourteau:イチョウガニ)です。手足の身は少ないのに、横幅20cmほどの甲羅の中にみそがぎっしり詰まっていて最高のおいしさ! 友人がわが家に遊びに来る時は、市場で待ち合わせをしてひとり一杯ずつ買い、鍋でゆでたら熱いまま甲羅を開けて、レモン汁や酢じょう油、手作りマヨネーズをつけてむさぼります。無限におしゃべりな私たちもこの時は無言になり、黙々と幸せだけが増えていく時間でした。
パリの食の思い出は、いくらでもこぼれてしまいます。市場の朝は早く、まだ薄暗い時間から、店主たちの声が路面に響き渡っていました。パン屋から漂うバターの香り、魚屋の氷が砕ける音、花束のラッピングが擦れる音……そこに、赤パプリカや干し魚、香木のようなスパイスの甘い香りが混ざって、眠気は一瞬で吹き飛びます。外国暮らしの買い物は、言葉を交わすほどに上手になっていくものです。知らない野菜の名前を聞いて切り方を教わり、家に帰って試して、また次の週に報告する。そんな小さな往復が、異国で暮らす私の足場になっていたなぁと思います。
この界隈は「プチ・アフリカ」と呼ばれる、活気あるアフリカ人街としても知られています。アフリカやアジアの食材が豊富で、店先の香りをかぐだけで旅しているような気分になる場所です。治安がよくないと言われることもありますが、私は怖い目に遭ったことは一度もなく、むしろ気さくなお店のおばさんと仲良くなって、料理のコツを教えてもらうこともありました。
今回紹介するのは、まさにその“おばさんレシピ”のひとつ。セネガルの代表的な郷土料理、鶏のライム風味「プレ・ヤッサ(Poulet Yassa)」です。ライムやレモンの果汁とにんにくで鶏肉をマリネし、そして本当? と思うくらい大量の玉ねぎを茶色く甘くなるまで鍋でじっくり炒めます。鶏を焼き付けてから鍋に戻して煮込んでいきます。柑橘の酸味がキャラメリゼした玉ねぎの甘味になじんでよりかぐわしく、そして最後にマスタードの辛味がうっすらと漂ってきます。さっぱりしているのに深いコクもあるおいしさで、口の中に広がる酸味と甘味が絶妙です。
プレ・ヤッサのコツは「待つ」ことでしょうか。ライム果汁に漬けた鶏肉は、3時間ほどで表面がきゅっと締まり、香りが中にしみていきます。焼く時は、汁気をしっかり拭いてから。そうすると皮目が香ばしく色づき、煮込んだあとも“ぼやけないうま味”が残ります。そして大量の玉ねぎは焦がさず、でも妥協せずにじっくりと。透明になってから、ほんのり色づくまで気長に炒めると、甘味が立ち、酸味の角が丸くなります。現地ではネリカ米のような、粘り気の少ない長粒米のご飯にかけて食べるのが定番です。日本ならタイ米やジャスミン米がおすすめ。本場では極辛のマギー・ソースを少し垂らして食べるようで、日本の食卓で言うなら、仕上げに数滴のしょう油を垂らすような感じでしょうか。
鍋のフタを開けて、湯気の向こうから柑橘の香りが立ち上ると、私のキッチンにモンマルトルの空気が一瞬だけ戻ってきます。窓の外は東京、でも鍋の中だけパリのような……。遠い記憶は、地図よりも、匂いと味の方が素早く連れてくるのだと感じます。
よかったら皆さんも、ぜひ一度プレ・ヤッサを煮込んでみてくださいね。ライムの酸味と玉ねぎの甘味の先に、きっと小さな異国の風が吹きます!
文・写真 カヒミ カリィ

鶏のライム風味 プレ・ヤッサ(Poulet Yassa)
材料(2~3人分)
・鶏もも肉…大2枚。または手羽元10本ほど。好きな部位をミックスしても結構です。
・玉ねぎ(うす切り)…3~4コ分。ちょっと多すぎるかと思うくらい、たっぷりと。
・ライムのしぼり汁…約60ml(2~3コ分。またはレモン2コ分)
・ライムの皮(大きめに切る)…1コ分(またはレモンの皮2/3コ分)
◎ライムをしぼる前に、皮を切っておくとよいでしょう。
・にんにく(みじん切り)…2片分
・タイム…1/2枝(ドライなら1つまみ)
・ローリエ…1枚
・鶏ガラスープ(煮汁が足りない時)…カップ1/4〜1/2杯
・ディジョンマスタード…小サジ1杯
・オリーブ油…大サジ3杯
◎本場では落花生油を使用します。
・塩…適量
・コショー…少々
添えもの(好みで)
・ご飯(タイ米、ジャスミン米がおすすめ)…適量
・イタリアンパセリ(刻む)…少々
・唐辛子、またはホットソ-ス…少々

作り方
1 鶏肉を食べやすく切ります。ボール(またはポリ袋)に、鶏肉、ライムのしぼり汁、にんにくのみじん切り1片分を入れて肉に揉み込み、冷蔵庫で3時間以上漬けます。途中で2~3回返します。
2 鶏肉を取り出し、汁気をしっかり拭きます。マリネ液は取っておきます。グリルで(またはフライパンにオリーブ油適量を引いて)、両面をこんがりと焼き、取り出します。この時、中まで火を通さなくて結構です。
3 フライパンにオリーブ油を引き、玉ねぎ、にんにくのみじん切り1片分を加え、中火でじっくり炒めます。少し茶色く、透明になってきたら、塩小サジ1/2杯、コショー、タイム、ローリエ、マリネ液、ディジョンマスタード、ライムの皮を加えます。
4 煮立ったら2の鶏肉を加え、フタをして弱火で20分ほど煮込みます。煮汁が少なければ鶏ガラスープを足します。仕上げに塩で味をととのえます。
5 器にご飯を盛り、鶏肉をのせ、たっぷりの玉ねぎと煮汁をかけて、イタリアンパセリを振ります。飾りで、ライム(分量外)をのせても結構です。好みで唐辛子やホットソ-スをかけて召し上がれ!
◎プレ・ヤッサには、アフリカのサラダ「カチュンバリ」がよく合います。トマト、玉ねぎ、香菜など、好みの野菜を食べやすく切り、ライムのしぼり汁、青唐辛子、オリーブ油、塩・コショーで味つけします。

カヒミ カリィ
ミュージシャン、文筆家、フォトグラファー。1968年生まれ。
フランスで約8年、アメリカで約13年暮らし、2025年春に日本へ帰国。
『暮しの手帖』の連載「すてきなあなたに」にも寄稿。
Instagram:https://www.instagram.com/kahimikarie_official/
