反復横跳び、ときどき休憩
第16回 自転車のない帰り道にも
2026年08月12日

以前こんな短歌をつくったことがある。
自転車でコンビニへ行く粗大ゴミシールを自転車に貼るために
故郷である高知県四万十市への転居を決めたのは、2022年6月のことだった。
当時住んでいた横浜市から四万十市への長距離の引っ越しでは、荷物が多いほど料金がかさむ。そのため、私は自転車を手放すことにした。
近所へ買い物に行くときにお世話になっていた紺色の自転車は、普通のママチャリで、前かごがほんのちょっとゆがんでいたけれど、それ以外は異常がなく、まだまだ乗れる良好な状態だった。
市へ粗大ゴミの収集の申し込みをして、収集日は引っ越しの2日前に決まった。
私は自転車をこいで、コンビニへと向かう。粗大ゴミを出すために、「粗大ゴミシール」を買わなければならない。
そのとき、ペダルをこぎながら、なんともいえない大きな感情にぐらぐらと揺さぶられる感覚を覚えた。
まだ乗れる自転車を、自分の事情で捨てる。私が引っ越しを決めなければ、自転車の命は、これからも続くはずだった。自転車を捨てるために、その自転車で、コンビニへ向かっている。
まるで自転車を利用して、自転車を死へと向かわせている感じがしたのだ。
粗大ゴミ収集の前夜、私は自転車を自宅の玄関から20メートルほど離れた粗大ゴミ置き場に連れて行った。シールを貼って、所定の場所に立てかける。いつもなら自転車を停めるときに必ず鍵をかける。今回もそうしようと思っていた。けれども鍵をかける瞬間に躊躇って、私は、鍵をかけるのをやめた。まだ自由にどこへでも行けるはずの自転車を、私のエゴで捨てることに変わりはないとしても、せめて自由を奪わない形で、その場に置きたいと思ったのだ。
翌朝、収集の時間になる前に見に行くと、自転車はなくなっていた。誰かが持って行ったのだろう。それを知ったとき、私は嬉しかった。粗大ゴミとして処分されるはずだったのに、その手前で、誰かが必要としてくれた。私が奪わなかった自由を、自転車はちゃんと使ったのだ。
あれから3年が経った。私は高知と東京の二拠点生活を経て、再び東京に戻り、生活をしている。
先日、自転車を新調した。変速ギアのついた、タイヤの大きなかご付きのクロスバイクだ。
隣駅の近くにお気に入りの銭湯を発見したので、気軽に行けるようにしたいと思ったのがきっかけで、上り坂もタフに対応してくれる自転車を購入したのだった。
一つ前に住んでいたのは三鷹で、そこではミニベロと呼ばれる街乗り用の小さな自転車に乗っていたのだが、坂の多い今の地域にはそれが合わず、手入れを怠っていたこともあり、タイヤがへたりやすくなっていた。
クロスバイクを購入した店舗は、購入特典として、処分したい自転車を無料で引き取ってくれる。後日、レシートを持って、ミニベロを店舗まで運ぶことにした。
ペダルを踏みながら、まただ、と思った。自転車の力を使って、自転車の死へ向かっている。
前回と違うのは、引き取ってくれる店舗が二つ隣の駅で、15分から20分、こぐ必要があったこと。最後のサイクリングだ。感傷に浸りながらこいでいく。
出発前に空気を入れたはずのタイヤは、やっぱりどこか頼りなく、徐々にへたってきている気がする。地面の震動をダイレクトに感じる。空気の抜けやすくなったタイヤのせいで、なかなか乗らなくなってしまったミニベロ。タイヤをへたらせたのは私だし、きちんとメンテナンスをすれば、本当はまだまだ乗れるのだ。でも、手放す。
自転車を手放すことで、こんなにも心が揺れてしまうのは、なぜだろう。私はぬいぐるみを手放すこともものすごく苦手だ。その理由は明確で、彼らには顔がついている。だから心があるような気がして、感情移入してしまう。だが、自転車には、顔と呼べるようなパーツはどこにもない。それでも私は、自転車に心があるような気がしている。
では、例えば服や本はどうだろう。服を処分するとき、私はそこまでつらくはならない。本もそうだ。どちらも、再び誰かが手に取ることを想定した手放し方をするからだろうか。服にも本にも、「心がある」と思ったことはない。擬人化して捉えたことがない。
服と自転車は何が違うのか。ぐっと体重をかけてペダルをこいだ瞬間、自然とわかった。私は自転車に体重を預けているのだ。
私には自転車への恩がある。大人1人分の体を、遠くまで素早く運んでくれる相棒になってくれたことへ、感謝があるのだ。私1人ではできなかったことが、自転車のおかげでできた。自転車での移動には身体性を伴う。自転車をこぐという行為そのものに、自転車と人との一蓮托生の気配が含まれている。
だが、自転車から私へ差し出されたものに対して、私は十分に恩を返せていないと思う。
人との関係においてもそうかもしれない。何かを差し出されたら、同等にあたる何かで応えるべきである、と、どこかで思っている。等価交換や、対等、ということ。
自転車屋に着くと、店内は思ったより明るかった。カウンターでレシートを見せると、店員さんは慣れた様子で「はい、お預かりします」と言い、ミニベロはあっさりと回収されてしまった。
拍子抜けした。もっと何か、区切りのようなものがあると思っていたのだ。
3年前、紺色の自転車も、鍵をかけずに置いた一夜のうちにいなくなった。あのときは、うれしかった。誰かがまだ必要としてくれたことが、救いのように思えたのだ。
せめてお別れを言えばよかった。写真の一枚でも撮ればよかった。
私は手ぶらで店を出た。
自転車のない帰り道にも、風が吹いていた。
文 岡本真帆
岡本真帆(おかもとまほ)
歌人、作家。1989年生まれ。高知県出身。SNSに投稿した短歌「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」が話題となり、2022年に第一歌集『水上バス浅草行き』を刊行。ほかの著書に『あかるい花束』『落雷と祝福 「好き」に生かされる短歌とエッセイ』。東京と高知の二拠点生活、会社員と歌人の兼業生活を送るなかで気づいた日々のあれこれを綴る。
