反復横跳び、ときどき休憩

岡本真帆

第17回 始まりの海

2026年09月09日

2025年の秋、東京に家を買ったことをきっかけに、生活の拠点を東京に固定することにした。つまりそれは、フルリモート勤務の利点を生かして始めた、高知と東京の二拠点生活を終了させることを意味していた。
2022年の春から3年半続いた二拠点生活は、移動に片道7~8時間かかる大変さはあったけれど、それ以上にいつも楽しかった。私の高知の拠点は、故郷である四万十市にあり、高知空港からも2〜3時間の移動が必要だった。車の免許を持っていないこともあり、いつも特急列車で移動した。山間部と沿岸部を進んでいく路線では、たびたび電波が途切れてしまう。だから本を読んだり、オフラインでできる仕事をしたり、ぼーっと車窓を眺めたりして過ごした。不便さをじっくりと受け入れるような時間だ。やることが制限されるのに、移動すればするほど、自分の体感時間が延びていくような、1日あたりの時間の密度が濃くなるような、不思議な感覚があった。

7月下旬。高知県の学校の先生方に向けて講演する機会をいただき、久しぶりに帰省することになった。四万十市に帰るのは、年末年始以来だから半年ぶりだ。歌人として、自分の中にある事柄をどう言葉にしてきたのか、自分なりにお伝えすることが、普段子どもたちと向き合う先生方へのヒントになればと引き受けることにした。
最近の私といえば、いつもなんだか気ぜわしかった。魅力的な仕事が舞い込めば、わくわくしながら二つ返事で引き受ける。でも実際に取り組んでみると、自分の実力不足やふがいなさを感じるばかりで、思うようなものが書けない。もっとよくしたい。唸っているうちに締切は近づいてきて、他の執筆に充てるはずだった時間も侵食していく。もっとうまくできるはずなのに。現実の私は想像よりも拙くて未熟だ。気づけば複数の締切の狭間で、じりじりと減っていく砂時計の砂にあおり立てられるように、キーボードを叩いている。
高知へと向かう飛行機の中、いつもなら読書をしたり映画を観たりしているのに、この日は離陸後まもなく、ぐっすりと眠ってしまった。翌日に控えている講演の原稿も、実はまだ完成していない。移動中に少しでも進めようと思っていたはずなのに、それまでの日々で蓄積してきた疲労が、どっと押し寄せて私を眠りへと誘ったのだ。
高知空港に着くと、30分ほどバスで移動して、そこから高知では「汽車」と呼ばれるディーゼル列車に乗り換え、地元の最寄り駅まで2時間ほど移動する。三半規管が弱く、乗り物に酔いやすい私は、バスの中ではいつもすべてを諦める。やりたいこと、進めるべきこと、その全部を諦めて、窓の外を見ている。東京の平野にはなかった山がいくつも連なって、のどかな風景として広がっている。大空をとんびが旋回しているのが見える。
高知の時間はゆっくりと流れている。焦っているのは私の内側だけで、高知のなんにも気にしてなさそうなゆるやかな時間の流れに、自分も乗っかってしまいたかった。頰杖をつき、講演の内容を考えないとな、と車窓の山々をじっと眺めて物思いにふけっているうちに、気づけばまた、深く眠り込んでいた。

大体1時間半ほどたった辺りだろうか。
一瞬、自分が今どこにいるのか分からなかった。車窓には、暮れかけた空の色を映した海が広がっていた。黒潮町の浮鞭(うきぶち)のあたりだ。太平洋に面したこの区間、列車は海のすぐそばを走る。
沖縄の海のような、華やかな美しさではない。もっと静かで、淡い光だ。眠りから覚めたばかりの、束の間の休息を得た体に、活力がゆっくりと満ちていく。元気になった私の心に呼応するように、海の色は少しずつ濃さを変え、さりげなく優しく光っているように見えた。しばらく、何も考えられなかった。講演のことも、締切のことも、複数の予定が自分を待っていることも、一瞬すべてが遠のいていた。私はただ窓の外の静かな海を見ていた。

移動とは、疲れるものだと思ってきた。乗り物に酔いやすい私にとって、移動は常に何かを諦める時間だった。けれどこの瞬間、私を癒やしていたのは、まさにその「何もできない時間」そのものだったのかもしれない。スマホもしまったまま、普段の自分から切り離された時間だ。
二拠点生活を終えて、久々にこの地へと帰ってきたからこそ初めて分かった。遠くへ行くこと、普段の自分から離れることは、自分の体力や気力を削ぐものではなく、むしろ逆だった。いつも自分の活力を満たす特別な時間だったのだ。
一見無駄に思えるものが、私を生かしてくれている。第一歌集のあとがきに書いた言葉を、静かに反芻する。ずっとここにあったのだ。あの頃の気持ちも、そして、すべて受け入れてくれる故郷の景色も。スタート地点に立つ数年前の私に、旅の途中でまた会えたような気がした。

文 岡本真帆


岡本真帆(おかもとまほ)
歌人、作家。1989年生まれ。高知県出身。SNSに投稿した短歌「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」が話題となり、2022年に第一歌集『水上バス浅草行き』を刊行。ほかの著書に『あかるい花束』『落雷と祝福 「好き」に生かされる短歌とエッセイ』。東京と高知の二拠点生活、会社員と歌人の兼業生活を送るなかで気づいた日々のあれこれを綴る。