森のアトリエ雑記
第20回 森で命について考えた
2026年10月28日
ある日、カーテンを開けたら、窓の外にタヌキが座っていました。森でタヌキはしょっちゅう見かけるのですが、この至近距離は初めてです。僕の姿はタヌキからも見えています。というか、目が合っています。しかしタヌキは逃げるでもなく、そのまま横になり、ひなたぼっこを続けました。弱っているのは一目瞭然でした。胴体の毛が一部抜けています。タヌキらしい顔はしていましたが、目に力がありません。
「なにかしてやれることはないだろうか。水か? 食べ物か?」
なんてことも思い浮かびました。でも、なにもしてやれません。というか、なにもしてあげるべきではありません。人の視線がないほうがいいと思って、カーテンを閉めました。僕がしてやれることは、ここまで。野生動物には、生きる権利も死ぬ権利もあります。その死骸を食べて、別の生き物が命を繫ぐ権利もあります。そして僕には、その食物連鎖に干渉する権利はありません。
「死ぬ権利」
とんでもない言葉です。でも、自然の世界では、これが正しいこととして繰り返されている。僕は、これをなかなか受け入れられませんでした。
高校時代の出来事を思い出しました。学校の帰りに富士山が見たくなって、家と逆の方向に自転車を走らせていたら、道端に、まあまあ立派なカメがいました。よく見ると甲羅が割れていて、なんと卵がこぼれています。それでもそのカメは生きていました。
「なんとかしなきゃ!」
僕は、カメを安全そうな草むらに運びました。電話ボックスのタウンページで動物病院を探して、獣医さんに事情を説明しました。すると、「カメは診れない」とのことでした。僕はがっかりして、とりあえずカメのところに戻り、なにもできないまま、道端で泣きました。このとき僕は、カメを擬人化していたんだと思います。「痛いでカメ」「悲しいでカメ」って、カメが言っていると思い込んで、たまらなくなって泣いちゃったんだと思います。これ、優しさのようでありながら、僕の勝手な考えです。
街から森にアトリエを移して、もうずいぶん経ちます。こちらに来てからというもの、生き物の命について、よく考えさせられます。
焚き火をしていたらミヤマクワガタが飛んできたんですよ。すごく嬉しくて、そのまま大事に飼いました。でも僕は、台所にゴキブリが出れば、ためらうこともなくキンチョールを使います。どちらも、同じ虫なのに。
飼っているメダカたちの中に、体が曲がっている子がいました。何匹も生まれてくると、ときどきそういうのがいるんです。そして、あんまり長生きできないのです。最近、一匹、天国に行ってしまいました。そんなとき僕は、悲しくて胸が痛みます。それなのに、しらすおろしを見てもなんとも思いません。それどころか、大好きです。どちらも、同じ魚なのに。
森のアトリエの敷地内で、地面に落ちていた子リスを助けたことがありました。手のひらに伝わる体温、命の尊さに、胸がギューッとなるほど感動しました。でも、繁華街を走り抜けるネズミは、ちょっと怖いです。どちらも、同じ小動物なのに。
なにが違うというのでしょうか。生き物に、感情移入をしたりしなかったり。死んで悲しんだり、平気で殺したり。僕は、すごく勝手です。命を、見て見ぬふり。そうやって自分の残酷さを正当化しているのかもしれません。
富士山の近くの牧場で、子牛に会いました。それはもう、たまらなくかわいくて、たくさん話しかけました。だけど僕は、焚き火をしながら、メスティンで肉どうふをよくつくります。この牛肉だって、元はとうぜん生きていた牛なわけです。「いただきます」っていう言葉の意味を噛み締めるようになりました。
命に向き合う。これ、俳優の演技の説得力にも通じることだと思いました。俳優がセリフに魂が込もっているかどうかって、命に対して「いただきます」って言えるかどうかに似ています。
セリフに意味を込める、役に命を吹き込む。そんな俳優さんのために、僕は心を込めて脚本を書こう。だからね、自分の命も大事にしなくちゃな、と思います。与えてもらった感謝。生きているという価値を、使い切ろう。
自分の命についても考えざるを得ない時期がありました。ある受け止め難い出来事があって、僕は脚本を書くことも、演技をすることもできなくなってしまいました。そこから数年ぶんは、やると決めていたコント公演がありましたので、書き溜めてあったアイデアや、ボツになっていた脚本を、貯金を食い潰すように使いました。やがて残高は0。それでも、どうしてもコントや演劇と共に生きていきたくて、演者を引退して、つくれる自分を取り戻すために、心を立て直していきました。
僕は物心ついたときから、絵を描き、物語をつくってきました。僕にとって、つくることは生きることです。そんな僕が「つくれない」となったとき、生きることの意味がどんどん薄らいでいってしまいました。全身を支配する「つくれない」という事実。それが、価値のない自分を証明してしまう恐怖。
そこから抜け出すために、森の中で静かに焚き火をしたりして、少しずつ気持ちを整えていきました。炎で焼き鳥を炙っていたら、いい匂いにつられて、動物たちが見にきました。タヌキとか。アライグマとか。そんな瞬間は、思わず笑顔になれて、悩みから少し気持ちを切り離すことができました。
毎日考えました。僕にとって、「つくる」とはどういうことなのか。「生きる」とは。「死ぬ」とは。「命」とは。そして、森と野生動物は、少なからず僕にヒントをくれました。
みんな生きてる。みんなかわいい。
書けなくなった日から10年。あの手この手で回復を目指し、今僕は、再び0から1を生み出すことができています。速さも質も量も、いい感じだと思います。僕は、生きてます。
野生動物に餌をやってはいけないけれど、鳥の餌台を作るくらいは許してもらおうと、得意の木工でこしらえました。ほどなく、鳥たちは餌台を覚えて、よく来てくれるようになりました。
さて、今回の『森のアトリエ雑記』、挿絵じゃなくて、初の動画です。僕の手と、友達のヤマガラくんです。みんな生きてる。みんなかわいい。
つづく
撮影と文 小林賢太郎
小林賢太郎(こばやしけんたろう)
1973年生まれ。横浜市出身。多摩美術大学卒。脚本家・演出家。コントや演劇の舞台作品、映像作品、出版など。2016年からアトリエを森の中に構えて創作活動をしている。

