日本文学を訳すモノです
第9回 ある1月1日の、思い出
2026年01月21日

韓国では、お正月は普通、旧暦で祝われている。1月1日は祝日ではあるものの、私たちにとっては特別な実感のない日だ。実際、2日には仕事のメールが届いた。
旧暦のお正月には、少し都合のいいところもある。去年やり残したことがあっても、まだ12月なのだと思えば、気持ちの整理がつく。大掃除も年末の宿題も、少し先送りにできる。
今年の1月1日にも、いつもと変わらず翻訳の仕事をしていると、日本の知人たちから「あけましておめでとうございます」というあいさつのメールがぽつりぽつりと届いた。そこでやっと、新年だなと思った。
普段と変わらないおかずで食事をしながら、YouTubeで日本のテレビ番組のおせち料理特集を見た。一品一品に意味を込めたおせちは、きれいで、整っていて、冷たそうだった。料理でありながら、もの静かで品がある。韓国のお正月の料理のにぎやかさとはずいぶん違った。
韓国のお正月料理は、とにかく食卓がたわむほど量が多く、温かい。お正月の代表料理といえば、日本のお雑煮にあたるトックだ。これには、うす焼き玉子の細切りや牛肉炒め、刻み海苔などをたっぷりのせる。何種類ものチヂミが皿に山のように重なり、大皿いっぱいにチャプチェが盛られる。ナムルは三種類以上、キムチも何種類も並ぶ。そこに干しイシモチやカルビ料理まで加わる。何種類もの果物やお餅、お菓子、甘酒は、食事の後の楽しみだった。
もっとも、核家族化が進み、最近は簡素になってきた。おせち料理も簡略化されてきたと、番組でも話していた。そんなものなのだろう。個人的には、両親が亡くなってから、お正月というものに、以前ほどの意味を感じなくなった。
あ、お正月というと、ふいに忘れられない1月1日の記憶が浮かび上がった。その話をしましょう。
娘が8歳になる年、仙台で迎えたお正月の時。
お正月なのかどうかも分からない娘は、いつも通り明るかったが、私は他国の正月を異邦人として迎えていた。年末からの懸案もあり、気持ちは晴れなかった。それでも、子どもに申し訳ない気持ちになり、手を引いて外に出た。一日乗車券を買って、観光地を巡るるーぷる仙台バスに乗り、市内を回ることにした。仙台に来て三カ月目だったが、そのバスに乗るのは初めてだった。
名前も覚えていない神社には、初詣の人が大勢集まっていた。お正月なのに町全体が静か過ぎると思っていたら、皆さん、ここにいらっしゃったんだと驚いた。翻訳した日本の小説で「初詣」という言葉に注釈を付けてきたが、実際の光景を見るのは、その時が初めてだった。参拝の列は、日が暮れるまでに終わるのかと思うほど長かった。何も分からない娘は、大勢の人とお正月の雰囲気に無邪気にはしゃいでいた。空は涙が出そうなほど青かった。私も手を合わせ、「今年は娘と幸せでいられますように」と心の中で祈った。
次に向かったのは、仙台城跡だった。
伊達政宗の銅像が高くそびえていた。こちらも翻訳の時、注釈を付けてきた人物だが、感慨に浸る余裕はなかった。とにかく寒かった。だって、1月の仙台、しかも街を見下ろす丘の上だった。それでも、そこから見下ろす仙台の街は、驚くほど穏やかだった。その時、視界がすっと澄むような感覚とともに、ひとつの決心がついた。
よし、これからは、この子と二人で生きていこう。
そう決めて坂を下りる時、長いあいだ抱えていた重たいものを、仙台城跡に置いてきたかのように、足取りが少し軽くなっていた。
決めたらすぐに動く性分。すべての手続きを終え、韓国行きの飛行機に乗ったのは1月25日だった。早かった。離婚届一枚で離婚が成立する日本の制度には、正直、助けられた。もし韓国だったら、家庭裁判所に何度も通う必要があり、面倒で、別れられなかったかもしれない。
その時の決断と選択は、31歳になった娘から、今でも「お母さんの人生でいちばんよくやったことだね」と言われている。
たまたま、あの時期に仙台へ転勤させてくれた元夫の会社の社長に、今さらながら感謝の気持ちを伝えたくなった。私の人生は、やはりついているのだと、しみじみ思った1月1日だった。
追伸:拙著『面倒だけど、幸せになってみようか』(平凡社刊)では、その後の「親子ふたりの生活」の一部をお読みいただけます。
文 クォン・ナミ
クォン・ナミ
韓国を代表する日本文学の翻訳家。エッセイスト。1966年生まれ。20代中頃から翻訳の仕事を始め、30年間に300冊以上の作品を担当。数多くの日本作家の作品を翻訳し、なかでも村上春樹のエッセイ、小川糸、益田ミリの作品は韓国で最も多く訳した。著書に『スターバックス日記』『面倒だけど、幸せになってみようか』など。日本語版が刊行されているものに『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』がある。
