日本文学を訳すモノです
第11回 娘がくれた還暦祝い、3つの選択肢
2026年03月18日

私の今世は8割が運だった、とどこかの本に書いたことがある。還暦を目前にした今、あらためて振り返ってみても、やっぱり運がよかったんだなあ、と思う。生まれた環境も、選んだ道も、出会った仕事も。
まず、両親は教育にまるで関心のない人たちだった。だからこそ自分で自分の道を探し、大学で日本語と文学を専攻した。その選択が、運よく翻訳という仕事へとつながった。
貧しい結婚生活の末の離婚で、手元に残った資産もなく、いつ仕事が入るかも分からないフリーランス——そんな身ひとつで娘の手をつないでソウルへ戻ってきた。先の見えない不安の中だった。が、ちょうどその頃、韓国で日本文学ブームが起きた。
これほどの運に恵まれることがあるだろうか。シングルマザーになった私を後押しするかのように、ブームは勢いよく広がっていった。仕事がどんどん入ってきた。おかげで生活苦に悩む暇もないほど、人生でいちばん忙しい時期を迎えた。日本の人気作家さんの小説を訳すことはたまらなく楽しかった。休みなく働いているのに少しもつらくなかった。それまでは1冊訳し終えるたびに次の仕事を今か今かと待ち構えていたのに、常に半年から1年分の仕事が手元にある状態が当たり前になった。
小学生だった娘とは、週末になると必ず出かけ、一緒に遊んだ。よく向かったのは〈教保文庫〉という大型書店だ。自分の翻訳した本が陳列台に平積みされているのを確認し、娘の読みたい本を買い、おいしいものを食べて帰る。それが私たち母娘の週末の定番だった。
日本文学ブームの真っただ中で、店頭には私の訳した本がたくさん置いてあった。どちらが先に見つけるか小さな娘といつも競争をした。私は目の前にあっても気付かないで探すそぶりをし、娘は見つけるたびに勝利の喜びに満ちあふれた。そして、わざと周りの人に聞こえるように声を上げた。
「ママが訳した本、ここにある! ここにもある!」
日本文学ブームのおかげで、娘にとって”自慢のママ”になれた。運がよかった。
やがて娘は思春期を迎え、一緒に出かけることが減っていった。献本が届くと真っ先に箱を開け、「ママの名前がある」「訳者あとがきに私の名前もある」と喜んでいたあの子は、私の訳書に関心を示さなくなった。日本文学ブームも静かに落ち着いていった。「永遠なものなんて絶対ない」と、G-DRAGONも歌っていたっけ。
時が流れ、大学を卒業した娘は運よく安定した会社に就職し、私は運よくエッセイ集を出すようになった。娘は私のエッセイ集が大好きで、世界でいちばん面白い本だと言ってくれた。新刊が出るたびにSNSで自慢した。本には娘のエピソードがたくさん登場するけど、もちろん本人の許可済みのものだ。自分がネガティブに映る話は即アウト。どんなに惜しいネタでも削除しなければならない。読者からけなげな娘だとほめられることが多いのだが、それもそのはず——本人による厳しい検閲を通過した話しか載っていないのです。
30年以上、ほぼ一日中机の前で過ごしてきたのに、運よく風邪以外の病気もなく今月で還暦を迎えることになった。日本も同じだと思うけれど、かつては還暦といえば親戚や知人を全員呼んで盛大な宴を開くものだった。ところが、今はただの60歳の誕生日に過ぎない。家族で食事をしたり、旅行に出かけたりして祝う程度だ。
正月のある日、親孝行として名高い娘が還暦祝いに3択を提示してきた。
1、5つ星ホテルに親戚や知り合いを全員呼んでのディナーパーティー。
2、カルティエの腕時計。
3、ヨーロッパ旅行。
私の辞書に遠慮という言葉はない。迷わず3番を選んだ。
こうしてスペインとパリへの還暦旅行に行くことになった。ちょうど、この文章が公開される日、私は娘とパリで還暦ディナーをしているはず。ナポレオンがジョゼフィーヌとデートし、ヴィクトル・ユゴーやココ・シャネルといった著名人たちも愛用したという、パリ最古のレストランを予約してくれたらしい。まさかこんなにすてきな還暦を迎えるとは、想像もしていなかった。
今世、8割が運だったというのに、還暦の『おまけの運』まで転がり込んできた。いや、これからはもっと徳を積んで生きていきます。
文 クォン・ナミ
クォン・ナミ
韓国を代表する日本文学の翻訳家。エッセイスト。1966年生まれ。20代中頃から翻訳の仕事を始め、30年間に300冊以上の作品を担当。数多くの日本作家の作品を翻訳し、なかでも村上春樹のエッセイ、小川糸、益田ミリの作品は韓国で最も多く訳した。著書に『スターバックス日記』『面倒だけど、幸せになってみようか』など。日本語版が刊行されているものに『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』がある。
