反復横跳び、ときどき休憩

岡本真帆

第15回 優しさの分水嶺

2026年07月08日

先日、バスに乗っていたときのことである。窓の外をぼんやり眺めていると、横断歩道を渡ろうとしている男性が目に入った。
その人が待っている信号機の柱には黄色い箱がついていて、押しボタン式信号だとすぐに気がついた。その男性は、私を乗せたバスが横断歩道を通り過ぎるのを待って、それからゆっくりと赤いボタンを押した。
私はそこに、さりげない他人の優しさを見た気がした。バスの運行を妨げないように、通り過ぎてから押そう。そう決めて待っていたのだと思うと、それだけのことが、とてもうれしかった。本来なら誰も気づかないようなさりげない配慮に、出くわしてしまったような気がしたのだ。
私はバスに揺られながら、その場面をしばらく頭の中で繰り返し再生していた。こういう、わざわざ誰かに言わないような、誰とも分かち合わないけれど生活のなかでたしかに見ているものを、短歌にしたくなる。ささやかだけど宝物を見つけたようなうれしさに、誇らしい気持ちになってくる。たぶんそうやって何度も思い返してしまうことが、私にとっては「考え始めている」ということなのだと思う。

そういえば、駅から自宅までの道にも、押しボタン式信号はある。日中は普通の信号と同じ動きをしているけれど、夜中になると押しボタン式に変わる。自分もよく使うから、さっきの男性がボタンを押すタイミングを計っていたことへの共感はものすごくある。私は他人がそうするのを見て、優しいと思った。バスに乗っている立場だったからだろうか。
一方で、自分がボタンを押すときのことを思い出してみると、決して他人に優しくしようなどと思ったことはないことに気づく。優しさではない。私の場合は「申し訳なさ」だ。
ボタンを押すと、世界に変化を加える感覚がある。私がボタンを押さなければ、自動車は車道を流れ続ける。保たれるたしかな流れがある。そこでボタンを押して、車道の信号を赤に変えるということは、水を差すというか、出鼻をくじくというか、存在している確実な流れを邪魔してしまう感覚があるのだ。だから押しボタン式信号に出くわすと、ちょっと慎重になる。深夜の場合は、流れる車の距離を見計らって、タイミングを間違えないようにボタンを押している。

この申し訳なさは、いつも同じ強さで襲ってくるわけではない。
例えばもう一人、誰か信号待ちをする人がいたとしたら、何も気にならない。こっちは二人いるのだ。渡りたい人間が二人もいるのだ。その人が安全に渡るためにも、当然の権利としてボタンを押す。けれど自分一人で渡るときは、押しボタンの効果が長すぎる気がしてしまう。渡り終えてから信号が変わるまでの時間は、せいぜい5〜6秒だとは思うけれど、誰もいない夜道に車が1台待たされていて、それが私の行動に起因するということが、到底耐えられない。だからなるべく、車が通り過ぎるより前にはボタンを押さないようにしている。車が通り過ぎることで、安心して押せるようになるのだ。
そのくせ、1台の車がやや遠い場所に見えているときは、むしろ素早くボタンを押す。その方が待たせる時間を多少減らせるからだ。その車がやってくるまで待ってから押すようなことはさすがにしない。即座に判断を下し、さっさと渡ってしまった方が、歩行者にとっても運転手にとってもいい。お互いのためになるのだ。

車の台数が2台になり、ちょっと近い距離に迫っているときはどうかというと、罪悪感が結構強くなる。私の行動によって迷惑を被る存在が多い、と思ってしまう。だから2台のときは絶対に通り過ぎるのを待つ。でも不思議なことに、3台になったら気にならない。私のなかで、2台は「1台と1台」として認識できるけれど、3台は「複数の車」という塊になる。ここに絶妙な意識の転換点がある。

さらに車の量が多くなるとどうなるかというと、強気になれる。車の量が多く、連綿と続いているときは、悪いけどこっちにも生活がありまして……と思う。申し訳なさはない。むしろこちらも当然のことだと思うところがあり、毅然とした態度で、ボタンを押す。たくさんの車が行き交う中で、私はずっと一方的に待たされている側だ。ボタンを押すという行為は、車の自由を止めてでも、歩行者としての自分の自由を取り戻すための行為でもあるのかもしれない。

整理してみると、私の申し訳なさは、車の台数に比例して大きくなっていくわけではないらしい。少ないほど個人の責任を強く感じ、多いほど責任から解放されていく。台数が少ないときの車には、1台1台に「顔」がある。だから相手を個人として認識してしまい、申し訳なくなる。けれど台数が増えると、車の列はもう個ではなく、ひとつの「流れ」や「システム」になる。顔の見えないものに対しては、私も一個人として振る舞う必要がなくなるのだろう。そういう山なりのカーブが、私のなかにはあるようだ。

ここまで考えてきて、ふと気づいてしまった。
バスから見たあの人の行動も、本当は優しさからではなく、申し訳なさから来るものだったのかもしれない、ということに。バスを待たせたくない。車の流れを邪魔したくない。私自身とよく似た感覚で、ボタンを押していたただけなのかもしれない。
けれども私には、あの行為が優しさに見えた。

自分のなかにある申し訳なさは、どこまでいっても申し訳なさでしかないのに、他人のなかにある申し訳なさは、私の目には優しさとして映る。内側から見たときと、外側から見たときとで、まったく違う名前がつけられてしまう感情があるのだ。ということは、私が日々目撃しては短歌にしたくなる、人の「さりげない優しさ」の正体も、本人にとってはただの、誰にも言わない後ろめたい感情なのかもしれない。
私は、自分のことを優しい人間だと思ったことは一度もない。だが、私が申し訳なさから慎重にタイミングを計ってボタンを押すことも、誰かにとっては優しさに、もしかしたら救いにすら見えているのかもしれない。だとしたら、それは、いい誤解だ。

文 岡本真帆


岡本真帆(おかもとまほ)
歌人、作家。1989年生まれ。高知県出身。SNSに投稿した短歌「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」が話題となり、2022年に第一歌集『水上バス浅草行き』を刊行。ほかの著書に『あかるい花束』『落雷と祝福 「好き」に生かされる短歌とエッセイ』。東京と高知の二拠点生活、会社員と歌人の兼業生活を送るなかで気づいた日々のあれこれを綴る。