日本文学を訳すモノです
第15回 村上春樹風れんこん揚げと訳者あとがき
2026年07月15日

『村上さんのところ』(新潮社刊)で、「家で作れる簡単なビールのおつまみを教えてください」という読者の質問に、村上春樹さんがすすめていたのが、れんこんの素揚げだった。れんこんを薄切りにして酢水にさらし、水気をよく拭いて塩こしょうをし、ひたひたの油で軽く揚げる。好みでたかのつめを入れるだけ。はい、作ってみました。
簡単なのに、ちゃんとおいしかった。しゃくっとしたれんこんに冷えたビールがよく合う。村上さん風のれんこん揚げをつまみにビールを飲みながら娘とおしゃべりしていたら、ふいにこんなことを聞かれた。
「お母さんは、どうして村上さんの本には訳者あとがきを書かなかったの?」
あ、そうだった。手前みそで恐縮だが、私の訳書は訳者あとがきを楽しみにしてくださる読者がわりと多い。「ジャッキー・チェンといえば酔拳、クォン・ナミといえば訳者あとがき」と言ってくださる方までいるくらいだ。それなのに、これまで翻訳してきた村上春樹さんの小説やエッセイには、一度もあとがきを書いたことがない。
「蛇足」という言葉があるでしょう。つけ足し、余計なもの、という意味だ。村上春樹さんの文章のあとに私が何かを書き足すとしたら、それはきっと蛇足になってしまう、と思った。読者が彼の文章の余韻に浸っているところへ、私の文章で水を差したくなかったのだ。私が主に訳してきたのが短編集やエッセイだったことも、その理由のひとつかもしれない。
もちろん、最初のころは編集者から訳者あとがきをお願いされたこともあった。けれど、「村上春樹さんの本には、余計なものは要らない気がするんです」と言ったら、すぐに納得してくださった。娘にも同じ理由を話してやったら、こちらもあっさり納得した。おいおい、みんな少し間をおいてから納得してくれない?
そういえば、去年、神楽坂に2カ月ほど滞在していたとき、村上春樹ライブラリーに行ったことがある。1階のメインルームには、各国の言葉に翻訳された村上春樹さんの本がずらりと並んでいた。そこに自分が訳した本も何冊もあった。
地下のカフェ「オレンジキャット」では、作品に登場する動物たちのピンバッジが売られていた。その中に、私が訳した『ふわふわ』の猫のピンバッジもあって、思わず顔がほころんだ。自分の訳した本たちが、こんなにすてきな空間にいるのを見ると、うれしくもあり、うらやましくもあった。そこでパスタを食べたあと、勉強している若い人たちに交じって、私も翻訳の仕事をした。なんだか現実味がなかった。ふっと気を抜くと、このまま村上春樹さんの小説の中にすべりこんでしまうのではないか、そんな気さえした。
村上春樹ライブラリーに2度目に行ったときは、娘と一緒だった。私の訳書を見て、娘は「すごい!」と本気で感激していた。しかも運のいいことに、その日は大橋歩さんの「村上ラヂオの版画展」が開かれていた。「村上ラヂオ」シリーズは、私が翻訳を担当した作品である。村上作品の中でとりわけ好きなシリーズで、韓国の読者にも長く愛されている。力の抜けた、それでいて温かみのある線で描かれたイラストを眺めているうちに、夢中で、楽しく訳していた時間がふっとよみがえってきた。挿絵も文章も、やっぱり「村上ラヂオ」、好きだなあと思った。
娘は嬉しそうに写真を撮っては、自分のSNSにせっせと載せていた。韓国では、ふだんあまり本を読まない人でも、村上春樹さんの名前くらいは知っている。日本文学を翻訳していると言うと、よく聞かれるのだ。「どんな本を訳しているんですか」と。言ってもたぶん分からないだろうな、と思うときは、「村上春樹とか」と答える。すると、たいてい「わあ」と声のトーンがひとつ上がる。
娘の世代にとって、村上春樹さんは、身近な作家というわけではないのかもしれない。それでも名前だけは誰もが知っているから、母が訳した本だとSNSで自慢するには、ちょうどよかったのだろう。おかげで私は、娘にとって、ひとまず自慢の母になれたようだ。
いわゆるハルキストのように、村上春樹さんの全作品を愛しているわけではない。読者として、好きな作品もあれば、そうでもない作品もある。でも、村上春樹さんと同じ時代を生き、その作品を訳す機会をいただけたことは、私の翻訳人生の中でも、最大級の幸運だったと思う。百年に一人現れるかどうかという作家に出会えたのだから。缶ビールを片手に、これからもどうか元気で、長く書き続けてくださいますようにと、ひそかに祈った。
文 クォン・ナミ
クォン・ナミ
韓国を代表する日本文学の翻訳家。エッセイスト。1966年生まれ。20代中頃から翻訳の仕事を始め、30年間に300冊以上の作品を担当。数多くの日本作家の作品を翻訳し、なかでも村上春樹のエッセイ、小川糸、益田ミリの作品は韓国で最も多く訳した。著書に『スターバックス日記』『面倒だけど、幸せになってみようか』など。日本語版が刊行されているものに『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』がある。
