反復横跳び、ときどき休憩

岡本真帆

第3回 雨の日のグリーン車

2025年06月11日

3年前から東京と高知の二拠点生活をしている。東京の住まいは現在、中央線沿いにある。職場は渋谷駅が最寄りなので、出社する日はJRで新宿駅まで出て、そこから山手線に乗り換えるのだが、近頃、中央線快速にグリーン車が導入された。
私にとってグリーン車は旅行のような特別な日に乗るものだったり、お金に余裕のある人たちが使うものだったり、自分とはあまり縁がない、ラグジュアリーなもの、というイメージだった。だから中央線にグリーン車が導入されると聞いても、自分とは無関係だと思っていた。
正式導入される前に、約5カ月間のお試し乗車期間が設けられた。グリーン車は追加料金を払わなければならないのだが、その期間は追加料金なしで乗れるという。
基本的には時差通勤をしているので、わたしが朝のラッシュに巻き込まれることはほとんどない。通勤電車に乗るのは、お昼前の時間帯や、お昼ご飯を食べた後になることが多い。

あるとき、ホームで電車を待っていると、たまたま立っていたところがグリーン車の乗車位置だった。追加料金がいらないというなら、乗ってみるか。他の車両はすごく混雑してるし。そんな軽い気持ちで乗り込んだ。
お昼前のグリーン車の2階は、乗客がそこそこいたが、満席ではなかった。通路側の席が空いているのを見つけて、そこに座る。ほどなくしてドアが閉まり、ゆっくりと快速電車は動き出し、徐々に速度を上げていく。
まず思ったのは、静かだな、ということだった。普通の車両よりも、聞こえてくる音が少ない。不思議に思いながらよくよく耳を澄ませていると、車内アナウンスが必要最小限になっている。駅に到着する前に駅名をお知らせしてくれるくらいで、それ以外のアナウンスは省略されている。
同じ電車内でもこんなに違うのか。座席の背もたれをほんの少しだけ倒して、深く腰掛けながら、快適な乗り心地を一人噛み締める。
グリーン車は長距離移動する列車に似ている。新幹線とか、私がよく乗る、地元の鉄道みたいだ。テーブルがあって、ドリンクホルダーがあって、座席は少し倒すことができて。電源があるから充電だってできる。なんだか旅をしているときの気持ちになる。

それからの無料のグリーン車は、いつもほぼ満席だった。それはそうだ。こんな快適な場所に座ってゆっくりできるのだから。満席で、人がいっぱいいるのに、いつ乗ってもものすごく静かだった。眠っている人もいる。車内は外の光で明るくて、穏やかで、こういう時間が10分でも15分でも一日のなかにあると、何かが満たされていくな、と感じた。
でも私には、乗りながらいつも思っていたことがある。お試し期間が終わったら、グリーン車の乗車率はどうなるんだろう。
 
案の定、通常料金が導入されるとグリーン車はがらがらになった。Suicaを使ったグリーン料金は750円。たしかに毎回片道750円かかるとしたら、めったには乗れない。
私も会社に向かうときは、再び普通車に乗るようになった。午前中の中央線は結構混雑している。ラッシュを避けているからまだマシだけど、目的地までずっと立っているのは当たり前。ぐらぐらと揺れる車内、リュックを前に抱えて、人にぶつからないようにとつり革にしがみついているとき、あの静かな異空間が恋しくなった。
 そう、まんまとJRの策略にはまっているのである。お試し期間中に得たグリーン車のラグジュアリーな体験が、忘れられない。地獄のような通勤から逃れたくて、750円を払いたくなる。

それから私の両耳で、天使と悪魔が囁くようになった。
「中央線混んでるねえ、グリーン車に乗っちゃえば、こんなしんどい思いせずに、のんびりとした朝が過ごせるねえ」
「だめよ! 耳を貸さないで! 片道750円よ! 何度も乗ってたら破産しちゃう!」
「朝の快適さが750円で買えるなら安いもんじゃない?」
「新宿までのたった20分よ!? 割高じゃない!?」
いっそ楽になりたい。あの安寧を手に入れたい。
でも、本当にそれは今日なのか? 今日そこまでしてグリーン車に乗りたいか?
ラジオを聞いて目を閉じてじっとしていれば、今ここでも安寧は得られないか?
私の中でなんども葛藤がわきあがる。
一番大事なのは私の納得だ。
もしグリーン車に乗ったとしても、無駄遣いしちゃったな……と思ったなら、それは浪費。
でも、グリーン車に乗ってよかった! と満足すれば、それは肯定できる使い方になる。
 
どうすれば罪悪感なくグリーン車に乗れるのか。私はルールを決めた。
①晴れの日はグリーン車禁止。雨の日はグリーン車を検討してもよい
②キャリーケースなど荷物が多い時は、グリーン車に乗ってもよい
③中央線乗車中しか朝ご飯を食べるチャンスがない場合は、グリーン車に乗ってもよい
 
通勤電車の何がしんどいか。荷物が多いときに、立ったままでいることだ。雨の日は傘を持っているので、いつもより所持アイテムが多い。畳んだ傘が周りの人に当たらないように気をつけて持ちながらつり革をつかみ、体幹バランスゲームに興じることは、たった20分でも疲労感がにじむ。高知へ移動するときや出張時など、キャリーケースを持っているときは特に気を使う。私の小型キャリーにはストッパー機能がないので、電車が揺れると、慣性の法則でキャスターが縦横無尽に動こうとする。それを食い止めながら立っている。これも結構大変だ。だから雨の日はグリーン車を検討してもいいということにした。逆に、晴れの日は禁止だ。

雨の日。傘をさして、濡れたアスファルトをにらみつけながら駅に向かった私は、静かに心を決めた。今日は……乗っていい。
5号車の階段を上がり、2階席に乗り込む。座席の上部にSuicaをかざして、ランプの色が変わったら、グリーン車乗車完了。たかが750円、されど750円。やっぱりわずかな罪悪感はあるものの、窓側の席に座ってほんの少しだけ座席を倒すときには、もう高揚感と喜びの方が大きくなっている。
時間がなくて朝食が食べられなかったので、駅ナカのおにぎり屋さんで明太子おにぎりと唐揚げ、厚焼き卵の小さなお弁当を買った。水筒には家で淹れてきた熱いお茶が入っている。座席の向かいにあるテーブルを広げて、お弁当のプラスチックのふたを開ける。私の箸は唐揚げを目がけていく。口の中に放り込む。じゅわ、と広がる醤油とにんにくのうまみ。
外の雨音は遮られて、ただ穏やかな静けさがここにある。口の中では、おいしい唐揚げの超新星爆発が起きていた。幸せだ。静かな場所で、ゆっくりとおいしいものが味わえる。幸せだ。毎日グリーン車に乗りたい。もはや住みたいよ。鈍い灰色に染まった空と景色を眺めながら、私は熱いお茶が体の中に染みわたっていくのを感じた。
 
ゆで卵は生卵には戻れない。私も、グリーン車を知らない人生には、もう戻れないのかもしれない。 

文 岡本真帆


岡本真帆(おかもとまほ)
歌人、作家。1989年生まれ。高知県出身。SNSに投稿した短歌「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」が話題となり、2022年に第一歌集『水上バス浅草行き』を刊行。ほかの著書に『あかるい花束』『落雷と祝福 「好き」に生かされる短歌とエッセイ』。東京と高知の二拠点生活、会社員と歌人の兼業生活を送るなかで気づいた日々のあれこれを綴る。