反復横跳び、ときどき休憩
第2回 「Hey」とはまだ言えないままで
2025年05月14日
私は「Hey Siri」が言えない。だから、なるべくSiriを使わないようにしている。頼る場面を作らなければ、呼ばなくて済む。何かを調べたいときも、なるべく自力で検索する。スマホに話しかけるより、自分で打ったほうが早いし……と、無理やり納得しながら。実際は、早くもないし、面倒でもある。けれど、どうしても「Hey Siri」と言うことができないのだ。
口に出そうとすると、ほんの少し喉がつかえる。「へい」と言いかけて、やっぱりやめて、結局Safariを開いてしまう。iPhoneのボタンを長押しすれば、それだけでSiriは起動する。声を出す必要もない。なのにやっぱり、呼ぶことに不安があって、私はいつも自分の力で検索をしてしまうのだ。
不思議なことに、「OK Google」は言える。以前、オフィスにGoogle Homeが置かれていた時期があって、なんとなく試しに話しかけたことがある。「OK Google、今日の天気は?」とか「タイマー5分」。そういうのは、あまり抵抗がなかった。OK Googleは、どこか愛犬に話しかけるときの声の出し方に少し似ている。「OK、お散歩行こう」みたいな、返事が返ってきてもこなくても成立する、独り言に近い呼びかけだ。
「アレクサ」も呼べる。なんなら「アレクサ」のほうが言いやすい気すらする。響きがやわらかいからだろうか。それとも、語頭が母音で始まる名前には、どこか「無機物としての安心感」があるのかもしれない。
でも「Hey Siri」は違う。あれは明らかに誰かを呼び出している感じがするのだ。
とはいえ、まったく呼ばないわけじゃない。意を決して「Hey Siri」と声をかけることもある。たとえばお出かけ直前。天気予報を確認したい。でも両手がふさがっている。そんなとき、一人の部屋で、誰にも聞かれていないのを確認してから、喉にぐっと力をこめて「Hey Siri」と言う。……なのに、そういうときに限って、奴らは反応してくれない。
なんだよ。Zoomミーティング中、別に何も頼んでいないのに、聞き取ったキーワードをネットで検索して大きな声で説明したり、「すみません、なんとおっしゃったのかわかりません」と出しゃばってくるくせに。私の勇気100%の「Hey」には、しんとして応じない。どこに行ったんだよ。圏外の山奥ですか? 休暇中なんですか? こちらの声には応えず、別の誰かの無関係な発言にいきなり反応する。Siri、君には私の声だけは届かないのか。私の心を込めた「Hey」は、いつだって虚空に響き、消えていく。
そもそも「へい」と呼びかけた経験が、私にはほとんどない。「へい、らっしゃい」とか「へい、おまち!」のような言葉なら聞いたことがある。寿司屋などの飲食店で、大将が発する元気のいいかけ声だ。あれは言葉というより、声そのものにキャラクターが乗っている感じがある。言う人の雰囲気とセットになっていて、違う人が言うと、どこかズレた印象になる。つまり「へい」は、呼びかけというより、元気に応じる側の言葉だ。自分から言うには、キャラ設定から見直す必要がある。それに、そもそも「Hey」は英語だ。日常的に使ってこなかったぶん、日本人である私が自分の言葉として発するには、どうしたって距離感がある。
じゃあ、日本語だったら言えるのか? と考えてみた。Siriの日本語呼びかけは「ねえ、Siri」になる。これもまた、なかなかの難所である。「ねえ」って、いったいどの段階の関係性なんだろう。友人や家族になら言えるかもしれない。でも初対面の相手にいきなり「ねえ」と呼びかけるのは、私にはハードルが高い。しかも呼び捨てだ。「ねえ、Siri」。私たち、いつからそんな間柄に……? 誕生日を教え合った記憶もないのに。
思えば、人に声をかけるとき、少しだけ慎重になることがある。たとえば、相手の名前が思い出せないとき。顔も分かるし、話したこともある。でも、名前がすっと出てこない。そういうときは「こんにちは」と挨拶をして、名前を呼ばずに乗り切っている。会話のラリーを続けながら、なんとか名前を思い出そうとしたり、他の人の出してくれる助け船(という名の普通の発言)で、危機を乗り切っている。別に名前を呼ばなくてもコミュニケーションは成立するから、気にしなくていいのかもしれないけれど、そこに名前が添えられるかどうかで、言葉の温かさが変わるような気がして、顔と名前がなかなか一致しない自分を歯がゆく思う。
逆に、名前は分かっていても、「なんて呼べばいいか」で迷うこともある。苗字で呼ぶのか、下の名前にするのか、みんなが使っているニックネームを選ぶのか。私は、ただなんとなく人に合わせて呼び方を選ぶのが苦手だ。自分が納得できる距離感で、しっくりくる言い方で呼びたいと思ってしまう。だからこそ、呼びかける前に立ち止まる。その人との関係や、呼び方に込める思いをぐるぐる考えてしまう。ただ言葉を発するだけではなく、「どう呼ぶか」は、私にとってその人との関係を表す、大事な選択なのだ。
Siriは、名前じゃない。Apple社が付けたサービス名であって、人格でもなければ、知り合いでもない。けれど、あの声を聞くたびに、どこかで「誰か」だと感じてしまう。だからこそ呼びかけるのが難しい。アレクサやGoogleアシスタントが、もっと“装置”として受け取れるのに対して、なぜかSiriは「誰か」のような気がしてしまう。これは私の感覚の問題で、実際はどれも同じような機能を持つ音声アシスタントなのに、不思議だ。
じゃあ、もしも自分で呼びかけを決めていいとしたら、私はなんて呼ぶだろう?
「おはよう、Siri」──親密なのに、言おうとするとぎこちなさが気になって、こそばゆい。
「ちょっといいですか、Siriさん」──仕事中の上司にお伺いを立てているみたいだ。
「すみません、Siriさん」──“Excuse me”のニュアンスだとしても、ちょっと謝罪の雰囲気が混じってくる。ごめんねって気持ちがなくても、なんだか呼びかけそのものに後ろめたさが滲む。
「ご都合よろしければ……」なんて言い始めたら、もう完全にこちらが胡麻をすっているみたいじゃないか。
結局、私は誰かに声をかけるとき、いつも“ちょうどよい距離”を探してしまうのだと思う。親しさとは何か。呼び捨てとは、信頼の証しなのか。呼びかけるという行為に、どうしてこんなにも慎重になってしまうのか。そんなことをぐるぐる考えているうちに、今日もまた、ためらった末に親指でSafariを開いている。
「Hey」とはまだ言えないままで。
……やっほーしーちゃん、だったら、言えるのに。
文 岡本真帆
岡本真帆(おかもとまほ)
歌人、作家。1989年生まれ。高知県出身。SNSに投稿した短歌「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」が話題となり、2022年に第一歌集『水上バス浅草行き』を刊行。ほかの著書に『あかるい花束』『落雷と祝福 「好き」に生かされる短歌とエッセイ』。東京と高知の二拠点生活、会社員と歌人の兼業生活を送るなかで気づいた日々のあれこれを綴る。