日本文学を訳すモノです

クォン・ナミ

第5回 暮しの手帖社への道

2025年09月17日

神楽坂に滞在していた時に印象に残った出来事を、前回に続いて書いてみたい。私はかつて記憶力が人並み以上だと自負していたが、年を重ねるにつれ、それも怪しくなってきた。だからこそ、少しでも鮮明に覚えているうちに、感謝の瞬間を記録しておきたいと思ったのだ。あ、もちろん記憶を失う病気にかかったわけでも、頭の中に消しゴム工場ができたわけでもない。ただ、その時に胸に宿った温もりを言葉にして残しておきたいだけである。

前回も書いたが、私はスマートフォンで地図を見ながらでも迷ってしまうほどの方向音痴だ。新しい場所に行く時は数日前から緊張し、当日になると予習した道順も頭から消えてしまう。そんな私がある日、「暮しの手帖社」に行くことになった。Googleマップによれば竹橋駅から600メートル。駅から200メートルを超えるとパニックに陥る私にとってはなかなかの距離だ。

果たしてたどり着けるのか心もとなかったが、ちょうど前日、竹橋駅で毎日新聞社のHさんと岩波書店のNさんと約束があった。私は翌日もこの駅に来るが、暮しの手帖社までたどり着けるか自信がないとこぼした。すると親切なおふたりは、帰りに暮しの手帖社まで下見のつもりで一緒に歩いてくださった。もちろん、おふたりも道を知らず、三人の中で一番若いNさんが地図を見て先頭を歩き、私は写真を撮りながらついていった。そのおかげで胸がすっと軽くなった。

当日、写真を頼りに今度こそ迷わないぞと意気揚々と歩き出したものの、途中で混乱してしまった。覚えた道と、暮しの手帖社の担当者からの案内が頭の中で絡まり、先へ進めなくなったのだ。スマートフォンで地図を見ながらきょろきょろしていると、ひとりのおばあさんが近づいてきて「どちらを探しているの?」と声をかけてくださった。雑誌社の場所は知らないだろうと思いつつ「暮しの手帖社を探しています」と答えると、やはり知らなかった。しかし、前日の下見を思い出し「一階に豊島屋という酒屋があります」と伝えると、「ああ、豊島屋? それならもっと先だよ」と道を教えてくださった。言い終えてさっと去って行かれる背中に向かって、何度も「ありがとうございます!」と叫んだ。おばあさんの後ろ姿、格好良かった。

前日に下見を助けてくださったおふたりとおばあさんのおかげで、無事に暮しの手帖社にたどり着くことができた。そこで思った。方向音痴も悪いことばかりではない。迷ったからこそ出会えた人や風景があり、感じられた温もりがある。そう言い聞かせながら、不器用な自分をそっと慰めた。

方向音痴の話ではないが、2カ月の東京生活で最も感動した瞬間もまた『暮しの手帖』に関わっていたので、少し書いておきたい。第1回の原稿で、新婚時代によく通った三鷹図書館のことを書いた。私にとって思い出が凝縮された場所だ。今回、三十年ぶりにそこを訪れた。三鷹市役所の母子学級で出会った友人たちと一緒だった。図書館に足を踏み入れた瞬間、涙が込み上げたが必死に堪え、懐かしい館内を静かに見て回った。ちょうどその日は娘・ジョンハの三十歳の誕生日でもあった。この図書館で本を読みながら胎教をした記憶と重なり、感慨はひとしおだった。

たまたま私が日本に滞在していた時期に『暮しの手帖』6–7月号が刊行され、その号には私の文章が掲載されていた。そこで雑誌コーナーを探してみたのだが、どうやら貸し出し中のようだった。残念に思いながら雑誌を読んでいる方々のほうへ目をやった瞬間、居眠りをしていたある女性の手元に、見覚えのあるページが広がっていた。ほかならぬ『暮しの手帖』、しかも私の文章が載っているそのページだったのだ。こんな偶然、ありうる?

居眠りの最中に大変申し訳ないと思いつつ、「失礼ですが、この本を写真に撮ってもいいですか」と声をかけてしまった。彼女はぱっと目を覚まし、驚いたようにうなずいた。すぐに写真を撮り、お礼を言ったあと、小さな声で付け加えた。「実はこの文章、私が書いたものなんです」。すると彼女は目を丸くして「ええっ?」と声を上げた。私は深く頭を下げて、待っていた友人たちのもとへ戻った。

ソウルに戻ってからも、この出来事は人に会うたびに武勇伝のように語ってしまう。2カ月の神楽坂暮らしは、たくさんの土産話を残してくれたのだ。きっと老人ホームに入ってからも、証拠写真を見せながら「本当なんだから!」と自慢半分にくり返しているに違いない。ああ、本当に幸せな日々だった。

文 クォン・ナミ


クォン・ナミ
韓国を代表する日本文学の翻訳家。エッセイスト。1966年生まれ。20代中頃から翻訳の仕事を始め、30年間に300冊以上の作品を担当。数多くの日本作家の作品を翻訳し、なかでも村上春樹のエッセイ、小川糸、益田ミリの作品は韓国で最も多く訳した。著書に『スターバックス日記』『面倒だけど、幸せになってみようか』など。日本語版が刊行されているものに『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』がある。