森のアトリエ雑記
第8回 猫と私
2025年10月22日

森のアトリエの庭に、しょっちゅう猫が現れます。僕が車で出勤してくるとき、アトリエの数十メートル手前で待ち構えていて、
「さあ、こっちです」
と、山道を先導してくれるのです。オレンジ色っぽい、トラです。アトリエに到着して、敷地内に駐車して、僕が建物に入る。そして窓から庭を見ると……、その猫がアトリエの門番みたいな感じで、道を見張っているのです。頼んでないのに。目が合うと、
「お任せください」
という顔をします。ほぼ野生動物のくせに、太っていて、毛並みがいいです。多分、どっかの家で餌をもらってるんだと思います。僕は「みはりくん」と呼んでいます。
猫が好きです。そこいらで見かけると、ついつい声をかけてしまいます。僕の散歩コースには、何ヶ所かの猫ポイントがあります。そして、それぞれの場所に担当の猫がいて、僕はそいつらに勝手に名前を付けています。巨大な白黒のハチワレには「バケネコ」と名付け、ごちゃごちゃした雑な柄のやつには「ゴミちゃん」と名付けました。
犬の名前と猫の名前には、世界共通の傾向があるらしいですよ。犬の名前は、社会に対して見られていい名前。そして、猫の名前は、プライベートエリアに置いておく、個人的な名前、だそうです。確かに、犬にはかっこよくておしゃれな名前を付けている飼い主が多い気がします。「ロイ」とか「モカ」とか「リク」とか「バロン」とか。一方、猫にはずいぶん適当な名前が付いている気がします。「きゅうり」とか「ちくわ」とか「はんぺん」とか「ねこ」とか。
そんな猫好きの著者のアトリエの、駐車スペースを舗装したときのこと。業者さんから、コンクリートが固まるまでは出入りできないと聞いていたので、指定された数日間は出勤しませんでした。そして、いよいよ出勤日。僕が楽しみにしていたこと。そうです。コンクリートに、猫の足跡。なんと……ありました! ビシッと! かわいい足跡が刻印されていたのです! ナイス猫! 定時に敷地内を横切っていく大きなキジトラがいるので、多分あいつです。パトロールしているようです。いつも「異常なし」って顔をしてます。まあ、異常があったとて、君らにはなにもできないだろうに。
なにもできない。それでいいんです。いや、それ “ が ” いいんです。なにもできないということが、彼らの仕事なのです。ただ、猫が猫であってくれることが、僕のような猫好きの民にとっては、たまらなくありがたいことなのです。
猫はヒゲの先まで、全力で猫でいてくれます。すべての猫は「純然たる猫」なのです。猫が猫以外のふりをしているのを見たことがありません。それに比べて人間はどうでしょう。自分をよく見せようと、価値がありそうないろんなものを自分に貼り付け、自分以外の姿のふりをする。「どう思われたい」とか「どう思われたくない」とかに支配された、人間どもの愚かしさよ。
忙しいある日、アトリエのソファにドサっと座り、思わず口をついて出た言葉。
「疲れた……」
僕、これ、疲れてないときにも出るんですよね。と、いいますのも、この「疲れた……」は、今疲れている、という意味だけではないのです。過去10年分くらいで溜め込んだものなのです。僕を疲れさせた原因は、自分を含む、人間です。
作品をつくってるときはいいんです。楽しくて充実しているから。でも、ちょっとした隙間ができると、ついつい過去のつまらない記憶たちがよみがえってきて、無意識に、
「疲れた……」
ってつぶやいています。よくないなあ。そんなとき、目の前に猫がいたりすると、
「ああ、こうなりたい」
と思うのです。過去も未来も関係なく、ただ、今、ここを、幸せそうに生きている猫。人間でいることに疲れて、猫になりたいと思ったこと、みなさんにもありますか?
猫は、猫時間を生きています。ときに忙しぶってうろうろしていますけど、とくに用事があるわけもなく。ただ、生きている。僕にとって猫は、自由の象徴です。ニューヨークの自由の女神も、猫でいいと思います。とて、僕も僕で、僕時間を生きています。就職したことがないので、出勤時間や曜日のルールは、とくに気にせず生きてきました。猫に親近感が湧くのは、自然なことなのかもしれません。
ペットの犬や猫が自分のことを人間だと思っている、なんて話を聞いたことがありますが、僕の場合はその逆で、自分のことを人間だと思っていないフシがあります。と、いいますのも、頑張ってちゃんとした人間のふりをしているときがあるのです。本当は、全然ちゃんとしてないくせして。僕は幼い頃から、自分の姿に違和感がありました。もしもこの世界に、鏡などの自分の姿を映すものがなかったとしたら、僕は自分のことを毛が生えたこぶりな動物だと思い込んでいたことでしょう。
ところで、猫が手足を引っ込めて座った状態を「香箱座り」っていいます。先日、靴を買ったら黄色い箱に入ってきました。その箱を、テーブルの上にポンと置いといたんです。そしたら、いつの間にか猫が乗っていて、香箱座りしていました。見たことあるシルエットだと思ったら、あれでした。完全なる金印でした。拝んでおこう。ありがたい、ありがたい。
つづく
絵と文 小林賢太郎
小林賢太郎(こばやしけんたろう)
1973年生まれ。横浜市出身。多摩美術大学卒。脚本家・演出家。コントや演劇の舞台作品、映像作品、出版など。2016年からアトリエを森の中に構えて創作活動をしている。
