反復横跳び、ときどき休憩

岡本真帆

第12回 「いつもありがとうございます」

2026年03月11日

これは、少し不思議な出来事について綴ったエッセイである。
物語には、トンネルをくぐったり、橋を渡ったりすることで異世界へ迷い込んでしまうシーンが描かれることがある。私もあの日、何かを越境してしまったのかもしれない。気分で電車に乗って、普段行くはずのないスーパーまで行ってしまっただけなのに。平和な日常から、どこかへ。

私の住む街には、スーパーが2軒ある。一つは駅からの帰り道にあって、私はいつもそこで食材を買っている。その日も同じルートを選ぼうとして、でも急に、足を止めたくなった。スーパーの買い物というのは不思議なもので、日用品を選ぶだけだとしても、なぜかいつもわくわくした気持ちになる。今日はそのわくわくを、もっと大きくしたくなったのだ。私は方向を転換し、駅へ戻った。最寄り駅から2駅隣の大きな駅にあるスーパーに、行ってみようと思ったのだ。
そのスーパー「O」は品ぞろえが豊富で、安さにも力を入れている。以前住んでいたエリアでは別の店舗に何度もお世話になったけれど、今の街に引っ越してから訪れるのは初めてだった。店内は活気があって、商品を見て回るだけでもなんだか探検をしているように楽しい。肉と野菜の種類が圧倒的で、いつものスーパーでは見かけないホルモン系のお肉が並んでいたり、そのまま手巻き寿司パーティーができそうな寿司ネタの特大パックがあったりする。お得な価格で冷凍のネギトロパックが売られているのを見たときは、興奮してしまった。あらゆる棚に小さな発見があり、スーパーの中での道草が止まらない。これだ。この楽しさが欲しかったんだ、と浮かれたようにふらふら歩いた。

そうだ、カルピスも買おうと、飲料コーナーへ向かった。私はとにかくカルピスが好きなのである。カルピスさえあれば何かと乗り越えられる。だから水で希釈するタイプのものをよく購入している。そんなカルピスコーナーのそばで、ちょうど試飲会が開かれていた。スタッフの女性がクリアカップにカルピスを注いで配っている。そこそこの人だかりができていて、なかなかにぎわっている。
私はカルピスのボトルさえ手に取れればよかった。試飲がしたいわけでもないし、普通のカルピスの味ならもちろん知っている。人だかりをそっとかき分けてボトルをつかみ、さりげなく立ち去ろうとしたとき、スタッフの女性が私に気づいた。
「あ、こんにちは! いつもありがとうございます!」
にこやかに会釈をして、カルピスの入ったクリアカップを差し出してくれた。いらなかったのだけど、真っすぐな笑顔で差し出されたものを断るのも気が引けて、私はカルピスを受け取った。ちょっと変だな、と思ったけれど、試飲会の声かけというのはそういうものかもしれない。ひとまず気にしないことにして、カルピスを飲んだ。
飲み終えたカップをゴミ箱に入れて、ボトルを手にレジへ向かおうとした。軽く会釈をしてその場を立ち去ろうとすると、女性は再び言った。

「いつもありがとうございます。おつかれさまです」
今度こそ、変だと思った。

来店した全ての人に「いつもありがとう」と言っているのかもしれない。そういう接客方針のお店もある。でも、あの言い方は違った。明らかに、見知った人に向ける「いつもありがとう」だった。目が合って、認識して、それから言葉が出てきた感じがした。
だが、このスーパーに来たのは、今日が初めてだ。
だとすれば、誰かと間違えられているのだろうか。私にそっくりな誰かが、いつもこのスーパーに来てカルピスを買っているのだろうか。
……それはつまり、ドッペルゲンガーではないか。

次にスーパー「O」に行く日、私にとって、初めての来店ではなくなる。だから「いつもありがとうございます」と言われても、きっと今日ほどの違和感はなくなってしまうだろう。3回も足を運べば、今度は何も不思議ではない。あの違和感は、今日あの瞬間にしか生まれなかった。
「いつもありがとうございます」と言われたとき。そのほんの短い時間だけ、世界が少し歪んで見えた。ただの勘違いだったかもしれないし、社交辞令だったのかもしれない。それでも、たった一言の言葉のズレから、私の知らない世界が立ち上がってくるような気がして、うれしかったのだ。

ドッペルゲンガーに会うと死ぬ、という言い伝えがある。だとしたらその人に会ってしまうのは怖いけれど、2駅隣のスーパーでカルピスを買い、あの女性スタッフに「いつもありがとう」と言ってもらえる彼女のことは、なんとなく嫌いになれない。会えないまま、どうかよい暮らしを、と思っている。

文 岡本真帆


岡本真帆(おかもとまほ)
歌人、作家。1989年生まれ。高知県出身。SNSに投稿した短歌「ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」が話題となり、2022年に第一歌集『水上バス浅草行き』を刊行。ほかの著書に『あかるい花束』『落雷と祝福 「好き」に生かされる短歌とエッセイ』。東京と高知の二拠点生活、会社員と歌人の兼業生活を送るなかで気づいた日々のあれこれを綴る。