日本文学を訳すモノです

クォン・ナミ

第2回 懐かしい大家さん

2025年06月18日

新婚生活を送っていた三鷹の二階建てアパート。その一階には、大家さん一家が暮らしていた。八十歳近い老夫婦と、知的障害のある三十代の息子。なかなか笑わないおばあさんは少し怖く見えたが、愛想のよさでは誰にも負けない私は、すぐにおばあさんと仲良くなった。おばあさんも心を開き、私をとてもかわいがってくれた。

私が妊娠した時、おばあさんは「おめでとう」と言って赤飯を炊いて持ってきてくださった。日本ではお祝いごとに赤飯を食べるということを初めて知った。祝ってくれる人が誰もいない日本で、本当にありがたかった。それで、少しオーバーに「ありがとうございます」とお礼を言ったかもしれない。

それ以降、おばあさんは三日に一度は階段を上ってきた。
妊娠中の私に何か食べさせようとしていた。主にはゆでたさつまいもか、じゃがいもが一つか二つ。それはいつも、スーパーの透明なビニール袋に入っていた。袋には、古い家特有のむっとしたにおいが染み付いていた。その匂いは、食べ物にも移っていた。
お年寄りが危なっかしい鉄の階段を上って持ってくる。その気持ちがありがたくて、私は毎回「本当にありがとうございます。いただきます!」と大げさに明るく受け取った。実際にはつわりのあった私は、その匂いを嗅ぐのがとてもつらかった。

日本には「食べ物を粗末にすると目が潰れる」という言い伝えがあるが、韓国でも子どもの頃から「食べ物を捨てると罰が当たる」と耳にたこができるほど大人たちに言われた。それに私は妊婦。おばあさんのくれたさつまいもを捨てて、もし赤ちゃんに何かあったら大変だ。二階に住むかわいそうな韓国人妊婦にせっせとさつまいもをゆでて持っていってあげるのが大きな楽しみであるおばあさんに、「もう食べません」「持ってこないでください」なんて、口が裂けても言えない。偉大なる母性愛と人類愛で、さつまいもを噛みしめるようにして食べた。

おばあさんは何かを持ってくるたびに、あれこれ立ち話をした。ある日は、知的障害のある長男が自分たち夫婦の死後どう生きていくか心配で、家賃で暮らせるようにと無理してアパートを買ったという話をした。おばあさんは貧しかった頃のことを語ってくれた。
「どれほど貧しかったかというとね、雨が降ると雨漏りして、傘をさして、寝ている子どもたちを起こすの。雨が漏れないところに移って寝なさいって。すると、子どもたちは『お母さん、ぬれて寝るからお願い、起こさないで』って言うのよ。ハハ」
おばあさんは笑っていた。けれど、視力の弱った濁った瞳には、涙が浮かんでいた。私の目からも、すうっと涙が流れた。
「泣くなよ。おなかの赤ちゃんに良くないから」
おばあさんはそう言って、鉄の階段をゆっくりと下りていった。

大家さんとはいえ、暮らしが楽ではなさそうなおばあさんは、いつも同じ服を着ていた。でも、娘が生まれた時は、冬物の赤いベビー服をプレゼントしてくれた。私たち家族が韓国に帰ることになった時には、とても悲しがっていた。何度も「これから誰とおしゃべりすればいいの」と寂しそうに言った。小さな体をそっと抱きしめた時、また涙があふれた。おばあさんは「泣くなよ。もらい泣きしちゃうじゃないか」と言って私を押しのけた。

それから十年後、私は娘のジョンハと二人でおばあさんを訪ねた。失礼な話だが、高齢だったので、もう亡くなっているかもしれないと思い、手ぶらで行って表札を確認した。ありがたいことに、表札はそのままだった。急いでコンビニへ行き、大きなギフトセットを買ってチャイムを押した。

もはや人の輪郭しか見えないほど視力を失っていたおばあさんは、私の声を聞いて「アッ!!」と叫んだ。「生きててよかった。こうしてまた会えたんだね。会いたかったよ」と手を握って喜んでくれた。「あの赤ちゃんが、こんなに大きくなったんだね」と、うれしそうに、懐かしそうに、ぶつかるほどの距離でジョンハを見つめた。

そして数年後、再び訪ねた時、そこにはもう別の名前の表札があった。
妊娠中、思いがけずたくさんの救荒作物をいただいたおかげか、娘は元気に育ち、いまも病気ひとつせず暮らしている。
金子おばあさん、心から、ありがとうございました。

文 クォン・ナミ


クォン・ナミ
韓国を代表する日本文学の翻訳家。エッセイスト。1966年生まれ。20代中頃から翻訳の仕事を始め、30年間に300冊以上の作品を担当。数多くの日本作家の作品を翻訳し、なかでも村上春樹のエッセイ、小川糸、益田ミリの作品は韓国で最も多く訳した。著書に『スターバックス日記』『面倒だけど、幸せになってみようか』など。日本語版が刊行されているものに『ひとりだから楽しい仕事』『翻訳に生きて死んで』がある。