平和が「あたりまえ」であるうちに

2022年07月25日

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平和が「あたりまえ」であるうちに
――編集長より、最新号発売のご挨拶

このところ、帰宅の道すがら「あれ食べたいなあ」と思い浮かべるのは、冷ややっこ、きゅうりとワカメの酢の物、キンと冷えた夏野菜の揚げびたし……。暑い日が続きますが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
今号の表紙画は、絵本作家の荒井良二さんによる「『あたりまえ』のような一日」。思えば、荒井さんに絵を依頼したのは、ロシアによるウクライナ侵攻が始まって2週間ほど経った頃で、私たちは「戦争と平和」を考える特集を組みたいと手探りしていました。
「『私たちは平和を選びたい、そして幸せに暮らしたい』という思いが伝わるような絵を描いていただけませんか?」
そんな依頼状をお送りし、お会いして2時間ばかりおしゃべりしたのですが、荒井さんは「うーん、平和を描くってむずかしいなあ」とおっしゃいました。そうですよね、むずかしいですよね……。
やがて届いた下絵は、画面中央にアコーディオンを弾く妖精のような木が立ち、梢のなかには、ランプやソファ、お茶のセットなど、「暮らし」を彷彿させる愛らしいモノがこまごまと描かれていました。木の外側の世界には、踊る人びとや活気のある市場、遠くには港の風景。ああ、なんだか明るくて楽しくて幸せそうだ。
この絵に荒井さんが寄せてくださった言葉をご紹介します。

あたりまえのように朝が来て、日が昇り鳥がさえずり、
あたりまえのように空を見て、あたりまえのように食卓にごはんが並ぶ。
あたりまえのように仕事や学校や遊びにでかけ、
あたりまえのように誰かと話し、あたりまえのように笑う。
あたりまえのように紛争や戦争のニュースを見て、
あたりまえのようにお茶を飲む。この「あたりまえさ」は
「どこ」から来るのだろう、誰が作ったのだろうと
ぼんやり考えながら家路につく。そして、あたりまえに夜が来る。

「平和」というのは、平和であり続ける限り、まさに空気のように「あたりまえ」に思えるのかもしれません。いま、私たちが「平和」や「戦争」を考えるとき、先の戦争を懐古的に振り返るのではなく、何か身に迫ったものとして捉えるようになったのは、ウクライナへの侵攻があって以来、「平和はあたりまえじゃないのだよ」と耳元でささやかれているからなのだろうと思います。
平和はあたりまえではないから、勝ち取らなければならない。弱い国はいじめられる。他国から攻められたら、いったいどうするんだ。
そんな声がしだいに大きくなって、熟考しないまま、まっとうな議論のないまま、なし崩し的に変えられていくのかもしれない。恐ろしいと思います。

今号では、いまの状況を見つめながら、私たちなりに「戦争と平和」を考えた特集を編みました。「小林まさるさんの七勝八敗人生」と「戦争を語り継ぐために」の2本です。なんらむずかしい記事ではありませんし、同時に、何か明快な答えが書かれているわけでもありません。
心を落ち着けて考えてみたい人へ。まわりの人たちに「どう考える?」と問いかけて、話をしてみたい人へ。これらの記事が、ある「よすが」となることを願っています。
私をはじめ、ほとんどの編集部員は親の代から戦争を知らない世代であり、迷ったときに「よすが」とするのは、創刊者で初代編集長の花森安治の言葉です。1969年の『暮しの手帖』より、花森の文章をご紹介します。

この日本という〈くに〉を守るためにはどうしたらいいかという議論ばかりさかんだが、そのまえに、それなら、なぜこの〈くに〉を守らねばならないのかという、そのことが、考えからとばされてしまっている。
そんなことはわかりきったことだというだろう。
そうだろうか。
ためしに、ここで誰かが「なぜ〈くに〉を守らねばならないのか」と質問したら、はたしてなん人が、これに明確に答えることができるだろうか。

私たちは国のために生きるのではなく、私たちの暮らしのために国があるんですよね。今号も、一人ひとりのかけがえのない暮らしに、小さな灯りをともせたらと願って編みました。どうか、お役に立てますように。

『暮しの手帖』編集長 北川史織

※荒井良二さんが世田谷美術館の収蔵品から作品を選び、その魅力を紹介する展示が8月6日(土)より開かれます。花森安治の絵も展示されますので、ぜひお運びください。
「荒井良二のアールぶるっと! こんなに楽しい世田谷美術館の収蔵品」


暮しの手帖社 今日の編集部