価値観に風穴をあけてくれる存在

『パリのすてきなおじさん』
『パリのすてきなおじさん』 金井真紀 文と絵 広岡裕児 案内
柏書房 1,600円+税 装釘 寄藤文平 + 吉田考宏(文平銀座)

 パリには一度も行ったことがなく、当分その当てもない私ですが、ぱらぱらと本をめくると鮮やかで粋な「おじさん」のイラストが満載。それだけでも空想のパリ気分が味わえます。言い方はちょっと失礼かもしれないけれど、まるでおじさんカタログのようです。もくじを開くと、ざっくりとしたおじさんの分類によって構成されています。おしゃれ、アート、おいしい、あそぶ、はたらく、いまを生きるといった具合です。好みのイラストやそれぞれのおじさんの名言から選んで読むこともできます。
 気になる「おじさん」は何人もいますが、さて、どなたにしよう? 相当に迷いますがお一人だけ、大衆紙『パリジャン』の記者ニコラ・ジャカールさんをご紹介します。
 彼は、スイス国境近くのジュラ地方の生まれです。農村で育ち、おじいちゃんやお父さんから自然との調和や勤労精神、質素倹約といった農民的な価値観を教えられました。政治学を学んだあと、25歳で『パリジャン』の記者になります。『パリジャン』は地域密着型で、足を使った取材記事が売り。ニコラさんは難民をテーマにアルジェリアやギリシャへ行ったかと思えば、明日にはパリ市長にインタビューと、いろいろな現場を飛び回ってきました。なかでもニコラさんに大きな影響を与えたのが、2010年1月にカリブ海沿岸で起きたハイチ大地震でした。いち早く現地入りした彼は、取材に奔走します。「死体がゴミみたいに道に置き去りにされている。そのとなりに生きている人もゴミみたいにうずくまっている」。この光景を目の当たりにして、ニコラさんの仕事観や人生観は一変します。「細かいことにくよくよせず、いまを生きるしかない」そう思えるようになったのです。
 「ケツを振らなくても、まっすぐ歩ける」とはニコラさんのおじいちゃんやお父さんからの教え。「地に足をつけて生きろ」に近い意味なのだとか。力強いですね。
 この本の冒頭に、伊丹十三の言葉が引用されています。
 「少年である僕がいるとする。僕は両親が押しつけてくる価値観や物の考え方に閉じこめられている。(中略)ある日ふらっとやってきて、両親の価値観に風穴をあけてくれる存在、それがおじさんなんです」
 パリの街角は、多様なルーツからくる人種、言語、宗教、食も含めた文化が複雑に混ざり合っているのだと、おじさんたちの人生観に触れて分かってきました。風穴をあけてくれる味わい深いおじさんたちは、きっとこのパリ社会の風通しにも一役買っているに違いありません。
 頁と頁の合間には、案内役としてフリージャーナリスト・広岡裕児さんの<アルジェリアとフランス><フランスのイスラム教徒><移民・難民・そして子どもたち>などの解説文があって、その多様さを理解する大きな助けになりました。
 ところで、この本、おじさんの多様性を表現できたらとデザインにも工夫がなされていて、おじさん違いの帯が四種類もあり、選ぶのに迷います。ちなみに私は「食べるためにピアノを弾き、悲しみを癒すために絵を描く」イヴ・ロージンさんでした。(上野)


暮しの手帖社 今日の編集部